「考えること」を考える

ある哲学者が「考えさせない時代に抗して-哲学な日々」という本を書いています。確かに、便利になって、お任せ社会になって、ややもすれば、観客になって舞台を見ているだけになりがちです。考えさせない時代になっているのかもしれません。
  不安だらけの世の中ですが、しっかり考えれば、面白く世界を見渡すことができるかもしれないのに、思考を停止させてお任せ定食だけを食べているのでは、もったいない気がします。そこで、生物界、人間界のことを含めて自分なりの考えを書いてみました。
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No.319 「進化の理論も進化し続ける」(2023.6.7)

  ダーウインの「種の起源」(1859年)は、生き物は変化しないもの(神様が創造したという説)ではなく、自ら小さな変異を続けていて、その変異で生存に適したものが繁栄し、そうでないものは絶滅していくという説だ。変異が何世代にも続くことで、新種が生まれたり、更に大きな変異が起きて別の種になったりする。ダーウインの考えは、「自然選択説」と呼ばれている。「種の起源」が書かれた当時は、遺伝子もメンデルの法則も知られていない時代だが、生物相の観察と実験によって得られた最先端の理論だ。

   ダーウイン以後の進化論が、どのように変遷してきたのかと思っていたところ、友人のM博士から、千葉聡さん(東北大学)の「歌うカタツムリ」(2017年岩波書店発行)の本を紹介された。
   千葉さんは、小笠原諸島をはじめ世界のカタツムリを相手に研究を進めている人だ。この本ではカタツムリを材料としたダーウイン以後の進化をめぐる論争を紹介している。例えば、進化の原動力は、変異の効果が大きいのか、自然の中での適応力が大きいのかといった論争である。ハワイ島のカタツムリ(ハワイマイマイ属)では、生息する谷によって殻の色や模様に様々な違いが見られるのに、それが生存の有利不利には影響していないと考えた
ギュリックが、1872年にダーウインに会って説明している。
   また、変異(突然変異)が起きるといっても、どの程度頻繁に起きているのか、生存率には影響しない中立的な変異があるのではないかという論争がある。この背景には、遺伝子(DNA)の発見と遺伝子によるタンパク質(アミノ酸)合成のデータの蓄積がある。木村資生(きむらもとお)は、「分子レベルでは、有利でも不利でもない中立の突然変異が大半である」という中立進化説を発表した。これに対して、自然選択の優位性を主張するブライアン・C・クラーク(現在ノッチンガム大学教授で千葉さんの留学先)らが激しい論争を起こした。その後の進化学者は、中立説を更に発展させて、適応進化の証拠と適応の仕組みを発見している。論争とは言っても、実験や観察による事実、蓄積されたデータの統計学的解析に基づく科学であり、不毛な論争にはなっていない点が素晴らしい。木村は1992年に、クラークは2010年に、それぞれ功績が認められ、英国王立協会から生物学の最高賞と言われるダーウイン・メダルを授与されている。

   ところで、千葉さんは、「歌うカタツムリ」の最後の章で、タヒチなどのカタツムリ(ポリネシアマイマイ)が、カタツムリを食べるカタツムリ(ヤマヒタチオビ)に食べつくされて全滅してしまったことを記している。ギュリックが研究したハワイマイマイも絶滅の危機にある。ヤマヒタチオビは、農業害虫のアフリカマイマイを駆除するためにフロリダから人間が持ち込んだものだった。人間活動も自然選択の一部であると考えれば、自然選択説は、恐ろしいほどの説得力がある。しかし、進化とは生き物の多様化であり、複雑化、高度化だと考えると、短期間のうちに種を絶滅させてしまう人間は、一体何をしているのだろうと思う。  (先頭に戻る

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No.318 「人類は戦争をやめられない!」(2023.6.3)

  今年4月の日本生物地理学会の大会で、「人類は戦争をやめることができるのか?」というテーマでシンポジウムが開催された。生物系の学術団体ではあるが、ロシア・ウクライナ戦争が激しさを増している時期であり興味深い話題だった。発言者は、学会長の森中定治さん、ゴリラの生態研究の山際壽一さん、カタツムリ進化の研究者千葉聡さん、考古学者の松本直子さん、中国哲学の石井剛さんらだ。
   記憶に残った発言を私流に記述すると、「生物(遺伝子)は利己的に行動する(ハミルトン説)が、有性生殖するヒトには真の利他(人類愛)があるので、そこを理解すれば戦争はなくせる」、「生物の利他性というのは実は多様性のことではないか。戦争を無くす上では自分とは違うものを認め合うことが大切だ」、「仲間に共感する能力が暴発すると戦争の原因になる」、「遺伝子の進化と人類愛とは別のものである」、「男性中心的な社会になって戦争が起きるようになった。利己だけなら戦争はあり得ない」、「自然科学による事実の発見とその意味付けとは異なる。間違った意味付けは危険である」などだ。示唆に富む発言だが誰もがテーマの問いかけにはまともに答えておらず、どちらかと言えば悲観的な見方をされていると感じた。

   今の私は、「人類は戦争はやめられない」と思っている。やめられない理由はいくつかある。1番大きな理由は、外国人などへの偏見や差別意識を無くすことはとても難しいからである(生き物は仲間でない者を警戒する)。2番目には自分たちが選挙で選んだ政権を批判したくないという仲間意識である。むしろ仲間には力強い(独裁的な)政権運営を期待する人は多い(今のロシアがそれだ)。3つ目は痛みを忘れてしまうことだ。大東亜戦争で無差別爆撃や原爆投下を経験したのに、戦争体験者・犠牲者が高齢化し少数になると(日本の今がその時期だが)、戦争やむなしとする若い人達が増えてくる。4つ目は、ミサイルや戦車、爆撃機、戦艦、砲弾などの生産販売で利益を上げる体制だ(今のアメリカだ)。一旦できた軍需産業は、ほどほどに紛争が起きて武器が売れることを望むようになる。
   実際、20世紀以降、第一次世界大戦、第二次世界大戦以後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争、そしてウクライナ戦争に至るまで、戦争の連続である(小さな紛争を上げればきりがない)。政治の現実は戦争をやめられない状況を生んでいる。

   ただし、「人類が戦争をやめられる」可能性がわずかに残されているとも思う。第二次大戦後は、植民地が開放され、民族の自立が進んだ。人種差別や男女差別は公民権運動などの活動で少しずつ解消されてきた。この10年ほどは欧米では性的マイノリティの権利を認める運動が広がりを見せている。日本では、選択的夫婦別姓を求める動きや、LGBTのカップルの権利(税制や福祉政策)を保証しようとする裁判の動きがある(5/30名古屋地裁)。戦争で真っ先に被害を受けるのは、弱い立場の女性・子ども、障がい者、貧困者である。軍備には莫大な金がいるが、政治家や権力者が金を出すわけではない。国民の生活を犠牲にして戦争を遂行するしかない。そのことを考えると、個人(特に弱者)の権利が尊重される社会では、戦争はとても起こしにくいと思う。私は、人類が戦争をやめられる時代は、どこの国でも、女性や子供、貧困者、障がい者、LGBT、難民などの権利が十分に認められるときに訪れるものだと思っている。 (先頭に戻る

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No.317 「素劇 楢山節考の魅力」(2023.5.26)

  5月25日の演劇鑑賞会で、劇団1980の公演「素劇 楢山節考(ならやまぶしこう)」を鑑賞した。ラッキーなことに、1000人入る会場の一番前列の中央だった。素劇は「すげき」と読む。素劇では、通常の舞台装置はなく、綱と四角い箱、木の枝を俳優が使って農家の家や家具、谷川、山道、岩山などを表現する。観客の想像力に依存した設定である。見終わって、確かにこの芝居には、大がかりな舞台装置は不必要だなあと思った。
   「楢山節考」は、姥捨て伝説をもとにした深沢七郎の有名な小説だ。貧困と飢餓に苦しむ山奥の小さな村の掟(70歳になったら老人は家を出て楢山に登って命を断つ)に縛られて暮らす家族の物語り。映画化が2度なされている。劇団1980の素劇は休みなしで2時間の上演だった。主人公はおりん婆さんとその息子だが、20名ほどの劇団員が総がかりで、おりんの家族や村人になったり、楢山の山頂(そこは墓地のような場所)に棲むカラスになったりする。歌(楢山節)が何度も歌われる。慰めになるのか、謎かけなのか不思議な歌だ。生への執着、ねたみ、世間体、思いやり、気高さが入り混じった歌詞だ。私は題名は「ならやまぶしこう」ではなく、「ならやまぶし・こう」と読むべきだとようやく気が付いた。「楢山節の世界についてこのように考えた」という意味だからだ。

   楢山節考には、英雄は登場しない。ハッピーエンドもない。しかし胸が熱くなる場面が何か所かあった。そうした場面では観客は、一瞬静まり返った。70歳を超す人が多いせいだろうか。少なからぬ人が涙を流していた。私は、この物語りを見て衝撃を受けたし、共感もした。きれいごとではすまされない世界を敢えて見せつけられる感じがした。楢山の自然(木々や森、カラス、雪、谷川)は、ただ人々をじっと見ているだけである。誰が良い、誰が正しいと言うような評価は許されない。まるで、村人も厳しい自然の一部であるかのような印象を受けた。深い意味を持つ作品だと思った。
   劇中に「天保銭」などのセリフがあるので江戸時代の設定だが、物語りの核心は現代にも共通している。飢餓、貧困、戦争、暴力がはびこる世界では普遍性を持ったテーマである。今村昌平監督の映画「楢山節考」は、カンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞している。劇団1980は、今年6月にはモルドバとルーマニアで公演を予定しているとのことだ。これらの国に避難しているロシア人、ウクライナ人も、是非見て欲しい作品だ。 (先頭に戻る

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No.316 「人をその内側から見た世界」(2023.5.18)

  先日の明け方、夢を見た。大きな食堂の片隅のテーブルで私はDさんと向かいあって座っていた。私は自分の仕事を自慢げに話していたが、そこで(夢の中で)気が付いたのは、Dさんは10年前に自死をされて亡くなっていたことだ。自死の理由は未だに分からない。親しい人だったのに、Dさんの葬儀には出張が重なって参加できなかった。夢から覚めて、「なぜ自慢話なんかしたんだろう」と反省した。
   その翌朝にも夢を見た。故郷の庭で私が遊び疲れて家の中に入ると、母がいた。母は別の女性と話をしながら口を開けて笑っていた。確かに母だとは思うのだが、顔はあまり似ておらず白い歯がきれいにそろっていた。私が母のそばで横になって寝ていると夢の中のエアコンのスイッチが入った。耳元にゆるい風が当たる感触で目が覚めた。歳をとってからの母は入れ歯をしていて、7年前に亡くなっている。

   夢には意味があると思う。体調が悪いときには、いやな夢を見ることが多い。心配事があるとそれが夢に出てくることがある。もちろん体調が悪くなくても夢は見る。意味が分らない夢も楽しい夢もある。夢の中では、過去がいきなり飛び出したり、場面が突然に変わったり、同時には決して出てこないはずの人達が同時に出てくる。夢は、脳が断片的な場面をつなぎ合わせて解釈しているだけという説もあるが、寝ているとしても生身の人間の脳の働きであることには間違いはない。自分という人間を内側(深層)から客観的に観察している目のような気がする。また、生きている私たちは、進路に迷うことが生じた場合には、既に死んだ親や親しい友人だったらいずれを選択するだろうかと考えることがある。あるいは、自分を客観的に観察したり、別の自分が自分を励ます意味で、自分に向かってつぶやくことがある。私は、こうしたヒトの反応は、心の安定を保つ意味では、とても大切なことではないかと思う。

   ヒト(人間)の心の有り様はいろいろだ。性別、年齢、地位、知識や財産など外部の評価だけではなく、ヒトの内部から生じる夢や自分自身への問いかけが、進路を選択させていることは間違いない。更に、「これこそが自分である」と思っていたものが、実はどこかの誰かと同じであることにも気が付く。多くの文学作品にはそうした心理が描かれている。
   この春に出版された村上春樹の「
街とその不確かな壁」(新潮社 本体2,700円)を読んだ。ここには死者との対話、自分と自分の影、他人の影のような自分、時間の意味の無さなど、夢(または人をその内側から見た世界)をめぐるキーワードが詰まっている。村上さんは、同じタイトルの作品を31歳で発表したが書籍化しなかった。その理由を本人は「とても重要な要素が含まれていると思っていたが、その何かを、十全に書ききるだけの筆力がまだ備わっていなかったから」と書いている。それから40年、71歳で完成させることができた背景には、いろいろな経験の積み重ねがあったのだろう。私は、自分がヒトという種に属していながら、ヒトは得体(本性)の知れないものだと思っている。村上春樹は、その得体の一部をこの作品で示してくれた。面白かった。 (先頭に戻る

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No.315 「これは隕石じゃなかった!!」(2023.4.30)

  No.311「これって隕石じゃないの!」で書いたように、隕石らしき黒い石が本物かどうか確めたいと思っていたところ、本日(4月30日)千葉県立中央博物館で地質学・岩石学を専門とする研究員の高橋直樹さんに話を聞くことができた。高橋さんには事前にメールで私の石の写真を見てもらい、「もしかしてスラグかもしれない」という返答を得ていた。スラグというのは、「鉱石から金属を製錬した時に出る副産物」だ。鉄鉱石を高温に熱し鉄を熔かし出して後にのこった滓(カス)だ。鉄鋼生産で出た大量のスラグは埋め立てや道路舗装の資材に使われているので、道端に転がっていても不思議はない。確かめたいことは2つあった。1つは、本物の隕石の表面の焼け焦げ(溶融皮殻)がどのような形状(色、模様や起伏、厚み)なのか。2つ目は、製鉄所からでてくるスラグの形状が私が見つけた隕石らしき石と同じかどうかだ。

   約束の時間に相談場所に箱を持って現れた高橋さんは、私が知りたいことを的確に説明して下さった。箱の中には、本物の2種の隕石(メキシコとアフリカのもの)と数種類のスラグの塊が入っていた。蛍光灯スタンドの下で、私の持参した石(AとC)と箱の中の石とをルーペで比較したり、磁石を近づけてくっつくかどうかを確認した。隕石もスラグも磁石にくっつくが、スラグは鉄が脱け出た部分はくっつき方が弱い。それから、本物の隕石の表面の黒い焼け焦げ(溶融皮殻)は薄くて石の内部は黒くないこと、表面はデコボコしていないことを、実物を見せて説明してくれた(残念ながら、本物の隕石は直に触ったり撮影したりはできなかった)。
   スラグについては、下の中央の写真(AとC以外は博物館が用意したスラグ)のように、大小あり、色も黒色から灰色まで、表面の模様も異なることを説明をしていただいた。私は、スラグだとされている石(右の写真:Bの拡大)の表面に、私が持参した石(左の写真:Aの拡大)と同じ小さなお椀状の窪みがあるのを見つけたので、これは決定的だど思った。なぜ窪みができるのかは分からないが黒い石はスラグに違いない。
   製鉄所の高炉では、コークスと鉄鉱石を高温(2000℃以上)で熔かす。銑鉄の上にたまったスラグは不純物を多く含むから、その成分の違いによって色や形状の異なるスラグができることは考えられる(参考PDF)。他方、隕石は、落下する間に大気との摩擦で数千度になるが、直ぐに表面が剥がれ落ちるので隕石内部が熔けてしまうことはなく、地表に至ったときには、表面だけが薄皮のように焼け焦げた状態になるらしい(資料)。だから隕石の表面は、スラグとは違ってデコボコにはならないと理解できた。

   隕石の話はこれでおしまいであるが、石を拾ってから、「もしや本物の隕石だったら」などと楽しい夢を見させてくれたことに感謝している。パートナーと一緒に博物館を訪れたので、隕石の話の後は、岩石や化石、生物界、歴史や文化など博物館の展示を見て、半日楽しむことができた(チバニアンのトピックも加わった)。博物館は実に飽きることが無い場所だ。 (先頭に戻る

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No.314 「'ここだけの話'というワナ」(2023.4.17)

  3月から4月初めは年度の変わり目で忙しい人が多い。私もボランティアの事務で慌ただしく過ごした。この時期に気がかりなことがあったので忘れないように書いておきたい。それは、役所も私たちも詐欺師と同じ語り口をしているということだ。対話の中で、「ここだけの話だが」などと言って、何かの事件の裏話や他人のスキャンダルを話すことがある。多くは笑い話であるが、危うい面もある。
   「こんな秘密の話をするのは、あなたが口の堅い人だと信頼しているから」というニュアンスで話しかけられると、つい耳を傾けてしまう。もし賢い話し手が聴き手の力を奪ったり、財産を奪ってやろうという意図を持っているならば、必ずこうした話しかけをする。

   気がかりになって考えたことは、官邸がメディア団体と取り決めているオフレコルールだ。2月3日に毎日新聞は、オフレコ要請を無視して記事を報道した(
記事2/3記事2/4)。LGBTQなど性的少数者や同性婚をめぐる岸田内閣の姿勢について問われた首相秘書官(荒井勝喜氏)は、オフレコだとしながら、記者達に「隣にすんでいるのもちょっと厭だ」、「僕だって見るのも嫌だ」などの差別発言をしたらしい。毎日新聞に続いて他の新聞社も記事にしたので、首相は政権批判に発展することを恐れてか、同秘書官を2月4日に更迭した。毎日新聞は、このルール破りについての検証記事を掲載している(2/163/29)。他の新聞社でも、荒井発言を差別だと非難しているが、オフレコ破りについては賛否が分かれているという(記事3/8)。オフレコを認めることは、メディアにとっては自由な報道を自ら縛ることになる。読売新聞は、オフレコ破りは政府が情報を出さなくなるから長期的には国民の知る権利を失わせるものだと結論づけている(2/10)。

   友人に「あなただけに話してあげるが、秘密にしてね」と言うことと、政権の幹部が「これはオフレコだから記事にしないでくれ」と記者に要求することは、多少似ている点がある。友人関係の場合は悪意が無いことが多いが、政権の場合は強固な政策目的があり、その目的に国民を誘導したい(国民の反発を買う事柄はオフレコにし、喜ばれそうなことは大宣伝したい)と考えているはずだ。オフレコは、政府から情報を取りたいメディアと世論を誘導したい政権党とのせめぎ合いの結果生まれた産物なのだ。メディアを飼いならす手段である。
   しかし、真面目なメディアの記者ならば国民の知る権利をとことん追求するだろう。誤った記事はもちろん、不十分な取材で済ませていれば、いずれそのことが分かり報道機関としての信用を失う。また、記事の作成は、記者の生き甲斐に関わる行為でもある。政府の言いなりの記事しか書かないことが続けば日本がどんな国になるかは、大日本帝国の末路を思い出せば分かる。2月3日の毎日新聞の記事は記者達の勇気のある賢明な判断だったと思うが、他社がオフレコを容認している姿勢は、私たち日本人のなれ合いの態度を反映しているのかもしれない。本当に大切なことは、なれ合いをやめて、勇気を奮って誰に対してもきちんと話すことが必要だと私は思っている。 (先頭に戻る

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No.313 「サクラの花は咲いたけれど」(2023.3.29)

  2023年度の政府予算が3月28日に成立した。一般会計の総額は114兆4千億円で過去最大規模だ。特に防衛費(軍事費)は、前年度当初予算の26%増の6兆8千億円となった。歳入の見込みは、69兆円なので、不足分は借金(国債)である。安倍内閣末期から、コロナ感染症とオリンピックなどのためにタガの外れたような規模の予算が組まれた。今では、米中覇権争いとウクライナ戦争の影響が加わり、軍事費が益々増大する。国を守るなどと威勢良く言う責任感のない政治家に任せていて大丈夫かと思う。モリカケ(森友・加計)事件、サクラを見る会のモラルハザード、アベのマスク、日本学術会議人事への介入、旧統一教会の広告塔だった元首相の影響が依然として続いている。国会中継を聞いていると、安倍氏の負の遺産が岸田内閣に強い影響を及ぼしていると感じる。オリンピックでの贈収賄事件には政治家も関わっていたのではと疑っている(⇒NHK記事)。

   日本政府の防衛費増加と安保政策はアメリカ政府から大歓迎されている。日本政府はアメリカの武器を高額で買ってくれるし、米中覇権争いでは、日本人と日本の国土をアメリカ側が利用できるからだ。覇権争いの究極の場面は台湾有事と言われる。実際にドンパチが始まれば、日本は無傷ではいられない。今年1月に検討された笹川平和財団のシミュレーションでは、自衛隊員だけで2500人の死傷者がでるという。民間人の死傷者は不明である。あまりに大きな数字なので公表できないのだと思う(⇒3/29記事)。戦闘は2週間程度で終るとの想定だが、今のウクライナを見れば、誰がそれを信じるだろうか。日本はアメリカから次々に武器を買い続け、非常事態が日常化する。アメリカは自国の本土が無事である限り戦争を続けるだろう。日米同盟の強化で恐怖のシナリオが作られようとしている。

   ミサイル、戦車、戦艦、爆撃機、核兵器などは、政治用語では「抑止力」だという(⇒平和学用語)。何を抑止するかと言えば、これらの武力で相手を威嚇して相手の攻撃意欲を抑止するのだという。だから北朝鮮も、「戦争抑止力を攻勢的に活用する」と公言している(⇒3/12記事)。日米韓は、抑止力を高めるとして北朝鮮の近くで頻繁に軍事演習をしている。
   ロシアがウクライナに侵攻をした数年前から、ウクライナ政府はアメリカの軍事顧問団を招いて軍事訓練を大規模に実施してきた。その結果、NATOの拡大だと恐れたロシアが昨年ウクライナに侵攻した。実際に戦争が始まれば、ミサイルや戦車などは「抑止力」ではなく、「戦争遂行能力」となる。ロジックなのか、魔法の言葉なのか、「戦争遂行力」とは言わず、「戦争抑止力」と言う。魅力的な言葉に聞こえるが、「抑止力」こそが戦争を起こすという矛盾を知っていなければならない。そもそも「国を守る」とは、何を犠牲にして、何を守ることなのかを考えておかないと、大東亜戦争の二の舞に遭遇してしまう。
   更に、戦争がどんな状況になったら終わらせるのかについて考えておく必要がある。友人の I さんらが昨年末に世田谷区で行った選択肢にシールを貼る調査では、始めた戦争のやめ方の選択肢に迷う人がとても多かった。私は核攻撃されたら戦争は直ちにやめるしかない(核戦争は日本民族と人類全てを壊滅させる)と思っているので、調査結果は驚きでもあった(⇒22年末調査結果)。    (先頭に戻る

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No.312 「自分の姿勢で変わる左右の意味」(2023.3.9)

  人の社会を成り立たせている重要なものの一つが言葉だ。言葉の共通理解のために辞書が作られる。三浦しおんの「舟を編む」は、辞書作りの物語りで映画にもなった。その中でも話題になっていたが、「右」と「左」をどのように表現するかが実はとても難しい。私は子どものときに、右とは「箸を持つ手の側」だとならった。しかし、箸を左手で持つ子供もいる。生活をする上で重要な言葉なので、小学生で教えなければならない。しかも誰にもわかる普遍的で正確な表現でなければならない。

   広辞苑には、「右」とは、「南を向いた時、西にあたる方向」と書かれている。明鏡国語辞典では、「右」は、「人体を対称線に沿って二分したとき、心臓のない方」と書かれている。Oxford英英辞書でも、右(right)は、「人が北を向いたときの東の方向」と書かれている。このような説明で子どもは納得するのだろうか。磁石を持たなければ人は南北を正しく知ることができない。心臓の位置に至っては、胸に手を当ててみても分からない。分かりにくい言葉を、更に分かりにくく説明している。
   言葉を覚え始めた小学生にとっては、右と左の区別は難しい。私がそうだった。漢字の形もとても似ている。「前」と「後」は、目玉のある方が「前」で、背中は「後」だと理解できる。しかし、人体の外見は左右対称だ。逆立ちして南を向いたら、西に当たる方向は左になる。寝ころんで南を向いたときはどうか。小学校の先生なら、「君たちが黒板に向かったとき廊下側が右だ」などと説明できるかもしれないが、すべての教室にあてはまるわけではないだろう。
   地球上では西へ西へと航海して一回りすると東に戻ってくる。右へ行ったつもりが、左になって戻ってきたということになる。人体の外見は左右対称だが、心臓、肝臓、胃などの臓器は左右非対称だ。もし体の中が透けて見えるならば、「肝臓のある方が右だよ」と表現できるかもしれない。それでも、自分の位置からみてそう言えるのであって、対面している相手からすれば、他人の肝臓は、自分から見た左側だ。

   こんなことを考えていたら、左右の区別が難しいのは、その判断基準が常に自分にあるからだという結論に達した。立っているか、逆立ちしているか、平面上にいるのか、球体の上にいるのか、自分の姿勢や位置で対象が右になったり左になったりする。自分の姿勢を意識しなければ右も左も分からない。
   どこで聞いたのか忘れたけれど、これなら小学生低学年でも分かるのではないかと思う決め方がある。「正面の黒板に大きく10という数字を書いて下さい。書いた10を見ているとき、1の側が左です。0の側が右です。右という漢字には0のような線で囲まれた部分があるので覚えておこうね」。     (先頭に戻る

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No.311 「これって隕石じゃないの!」(2023.2.24)

  素焼き鉢と違って、プラスチック鉢は軽いので、コチョウランの花茎に花が沢山ついたり、デンドロビウムの草丈が高くなったりすると倒れ易くなる。そこで鉢の底に小石を詰めて重心を低くして安定させている。今年2月中旬に私の住む家の庭で小石を数十個集めたら、その中に様子の変わった石があった。それが下の写真だ。大きさは直径3㎝よりやや大きい黒色の球状だ。左の写真は窪みの部分に鉄さびのような赤色がでている。中の写真は同じ石を裏側から撮ったもので、小さな白いものが混じり込んでいる。右の写真はこの石の一部を拡大したもので、1mmほどの丸く小さな窪みがいくつか見える(クリックで写真を拡大するとはっきり分かる)。

   私は直感的に、「これって隕石じゃないか」と思った。表面が黒くて見たことがない石だったからだ。初めはアスファルトのついた石か、デコボコした感じから溶岩のかけらかと思ったが、触ってみるとざらざらした感じがない。台所の1グラム単位で測れる秤で重さを測ると、69グラムだった。小さい割にずっしりとした感じがした。
フェライト磁石を赤く錆びた部分に近づけるとくっつくが、赤さびのない場所ではほとんどつかない。フェライト磁石よりもはるかに強力なネオジム磁石は、この石のどの部分にもしっかりくっつく。水を満たした容器に入れて溢れ出た水の重さを測ったら22グラム(つまりは22ccほど)だったので、比重は3程度はありそうだ。地上の石だとすれば重いほうだ。これらの特徴は隕石のそれと大きくは違わない(磁性比重)。
   隕石と地表の石とを見分けることは難しいとのことだ(説明1説明2説明3)。なぜなら、地球そのものが隕石や小惑星が集まってできたものだからだ。素人が隕石と判断できるのは、色と表面の模様だけ。表面の黒さは溶融皮殻(fusion crust)と呼ばれ、隕石と判定する最大の根拠となっている(小牧隕石の例)。しかし落下してから時間が経てば、表面の色が薄くなり、あるいは鉄分が錆びるので、色は決めてにならなくなる。決め手は化学成分分析かもしれない(平田解説)。地表面でほとんど見られない成分が大量に存在すれば、宇宙からきたと強く推測できる。

   私のパートナーは、「隕石がそんなに簡単に見つかるとは思われない。気になるなら博物館の研究者に見てもらったら」と笑って相手になってくれない。千葉県では2回隕石が見つかっており、1969年に芝山隕石、2020年に習志野隕石の命名がされている。特に、習志野隕石は、2020年7月に大きな火球が見られた後に発見されたもので、目撃された火球の大きさからみて、未発見の隕石片が多数落下していると推測されている。だから私の拾った石も習志野隕石の一部である可能性は十分あるのではと気になっている。いずれ、千葉県立中央博物館か東大理学部などに持参し、本物の隕石と分かれば研究に役立ててもらうつもりでいる。    (先頭に戻る

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No.310 「思慮なしでは善意は通じない」(2023.2.10)

  良いことを目的としていても方法や手順が誤っていれば、良くなるどころか逆の結果を招くこともある。先日鹿児島テレビで、天然記念物のアマミノクロウサギを保護するためのノネコ捕獲用のワナに2頭のアマミノクロウサギがかかって死んでいたと報じられた(2/9記事)。アマミノクロウサギの生息数を減少させた主な理由は、自動車による道路事故(ロードキル)、野犬や捨てられた猫(ノネコ)、マングースがあげられている。だからノネコ退治のワナは必要な道具ではある。ただ時折、このワナでアマミノクロウサギが捕獲されてしまうことがある。これまでは、頻繁に見回って、ワナにアマミノクロウサギが入っていた場合はその場で野生に戻していたが、今回は見回り点検が不十分だったことが災いしたらしい。

   これと似たようなことだが、自分の善意が相手に正しく理解されないことは時々あるし、相手に不都合をもたらすこともある。私は、近所の中学校の体育館を夜間にスポーツ団体に貸し出す市の事務を手伝っている。些細なことだが、最近こんな経験をした。
   1月中旬に、体育館の使用を希望する15団体に申請書を提出してもらう作業を行った。申請書は市から私にまとめて送られてきたものだ。提出してもらう申請書類は3枚複写式が2種類、計6枚である。120円の返信用切手を貼った封筒(定形外)を同封して送ったところ、2団体から送られた封筒に、料金不足のお知らせのハガキがついていた。封筒の重量が50グラムを超えていたのだ。提出書類だけならば50グラム以下だったのだが、2団体からの書類はクリアファイルに入れられていたので56グラムほどになっていた。50グラムを超える定形外封筒は140円となる。複写式の薄い紙が6枚なので気を使ってくれたことは分かる。クリアファイルは22グラムある。意外と重い。私は、「封筒には提出書類だけ入れて欲しいと頼んでいたのに」と思ったが、クリアファイルに入れる善意も理解できたので、ハガキに20円切手を貼って投函した。クリアファイルに入れた上で20円切手を追加で貼って送ってくれた団体が1つあった。当方の意図を理解した上で必要な手当てがなされていたのは嬉しかった。
   
   私には改善を要する点があった。それは、自分の意図を正しく伝えきれていなかったことである。今回は、薄い複写式の紙を6枚同封するのだから、しわになるのを防ぐためにクリアファイルを使うことは予想できた。クリアファイルを使わなくても一応は大丈夫ではあるが、もし使った場合には20円切手を追加で貼ってもらうことを要請しておけば良かったのだ。私は他人の善意を生かせなかったとも言える。経験して分かることでもあるが、他者との関係が上手く行くかどうかは、こうした気遣いができるかどうかにかかっている気がしている。    (先頭に戻る

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No.309 「コチョウラン 冬の水やり」(2023.1.30)

  洋ランの栽培で難しいのは冬季の水やりだ。蒸散が少ないので、夏と同じように水を与えていると鉢の中が常に湿った状態になる。水は蒸発時に周りから熱を奪って気化する。すると鉢の中の温度は外気温よりも下がるので根の細胞を痛め、腐らせることになる。それでは、水を与えなければ良いかと言えば、冬は花茎が伸びて蕾が膨らむ時期でもある。その時期に十分な水が与えられないと蕾が立ち枯れてしまう。

    そこで、根がどのように水を吸収するのかを観察してみた。コチョウランの根は下の写真左のように、太くてずんぐりしている。根の先端は緑褐色で生長が活発であるが、伸びた根は全体が白い。この白さは、根の表面が空洞の多い(スポンジ状の)細胞に取り巻かれているためだ。空気中の水分を吸収するのにも適している(
断面写真)。コチョウランの根にスプレーで水を撒くと、30秒も経たないうちに下の写真右のように緑色になる。白いスポンジ状の部分に水が入ったためだ。根が緑色なのは葉緑体ができているからだ(鉢底の方に向う根は乳白色のまま)。根ッコが白い靴下(スポンジ様)をはいていて、水を吸収したり排出したりしているようだ。「長靴下をはいたネッコ?」とつぶやいてみた。
   数年前に世界らん展に出品している園芸業者に冬の水やりのコツを聞いた。「気温が高くて根が伸びているのであれば、水も肥料も普通にやっている」と自信に満ちた返事をもらったが、その時は、その意味が良く理解できなかった。鉢の置かれた場所が常に15℃以上であれば普通に水やりが可能と書いてある解説書もある。ランを置いている居間はカーテンの裾を伸ばして冷気を防いでいるので、一番寒い日でも14℃台だった。自分なりの試行錯誤を経て、今は鉢の表面が乾いてから1~2日後に水をやるようにしている(鉢の大きさや質にもよるが、素焼鉢でミズゴケの5号鉢で1週間に1回。小さい鉢は4~5日に1回)。

   別の方法で水やり時期を探ることもできる。コチョウランの栽培では、透明のビニールポットが使われることがある。透明のポットの栽培は、外から根の張り具合、ミズゴケやバーク(細かな樹皮)の乾燥程度を見ることができる。ビニールポットではない場合でも、表面のミズゴケやバークに2~3㎝下を指で探れば湿気の程度を感じられる。 この1年間は丁寧に水やりをしたせいか、育てているコチョウラン、カトレア、パフィオペディルム、デンドロビウムはいずれも、全ての株が開花に至りそうだ(しかしバンダは未だ咲く様子がない)。
   参考⇒ 「No.206 春の水やり」    (先頭に戻る

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No.308 「一九四六 満州引き揚げ105万人」(2023.1.17)

  毎日のようにウクライナから悲惨な話が伝わってくる。ロ・ウ双方の兵士の頭上にだけミサイルが落とされるのではない。ウクライナ市民の住宅や病院施設も遠慮なく破壊される。女性や子供が犠牲になるのは、戦場から逃げられない事情があるのだろう。戦争の帰趨は不明だが、戦争が続く限り死傷者が増え、苦しむ人々が増え続けることだけは確実だ。

    合唱団員(再生の大地合唱団)の阿部則司さんから公演の招待状をもらったので、1月13日(金)に王子駅近くの
北とぴあに行った。地下展示ホールでは、中国人の画家王希奇の「一九四六」東京展が開かれていた(記事)。合唱団の公演は、この絵画展に合わせて開かれたものだ。プログラムには「満州引き揚げと再生への道」というタイトルがついていた。期待を胸に満州に渡った開拓農民たちが絶望し、1946年に日本に引き揚げるまでの悲しみや苦労が歌と朗読、寸劇で描かれている。帰国船が入出港できるのは葫蘆(コロ)島の港だけ。その間、飢餓と病気、襲撃などで家族や仲間が次々と死んで行った(証言⇒例1葫蘆島例2開拓団)。兵士に招集された男達にはシベリア抑留が待っていて、105万人の帰国者の多くは女性、子ども、老人や障がい者だった。気象庁職員だった新田次郎の夫人藤原ていさんが書いた「流れる星は生きている」を読んだことがあるので、引き揚げ者の辛酸はある程度知っていたが、開拓農民の帰国は更に大変だったようだ。
   数年前から開拓団の帰国者が組織する方正友好交流の会の会報を送ってもらっている。その会報には、多くの証言が載せられている。黒竜江省方正県には、日本人開拓民およそ5000人が祀られている墓(1963年中国政府の支援による公墓)がある。残留した日本人の願いを受け入れた中国政府の配慮で建立され、中国の人々によって維持管理されているとのことだ。当時は恨みを友愛に変える中国の政策があった。「一九四六」東京展は、東京都教育委員会などが後援者になっており、山田洋次、加藤登紀子、ちばてつやなど引き揚げ体験をした個人の賛同者がいる。
   「一九四六」の油絵(下写真)は、3メートル×20メートルの巨大なものである。コロ島の埠頭で引き揚げ船に乗船しようとする大勢の人々が描かれている。中国で有名な画家が、なぜ、中国の敵国だった日本の人々の姿を描いたのか。王さんは「戦争ではいつも弱者が苦しむ。彼らも戦争の犠牲者だ。引き揚げ船に乗る数百人の日本人を絵に残すのは私の義務だと思った」と語っている。私は王さんの温かな人柄に触れた気がした。

   私は、「戦争が始まれば苦しむのはいつも弱者だ」という現実について考えなけれなならないと思った。それは過去のことでも、ウクライナなど他国の話でもない。トランプ大統領時代から米中の覇権争いが進んでいて、つい最近では、岸田内閣が決めた敵基地攻撃能力(反撃能力)と軍事費倍増政策が米国で大歓迎されている。米国の研究所がシュミレーションをして、日本が参加しなければ、台湾有事で米国は勝てないという結論を発表している(1/13TBS1/12テレ朝)。日本が参加すれば台湾は守れるが、日本には甚大な被害が出るのだと言う。誰が犠牲になるのか。台湾有事で日本政府は何のために、誰のために戦おうというのか。日本人の生命や財産を守るという主張とはひどくかけ離れた恐ろしいシナリオである。 (先頭に戻る

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No.307 「記憶力・創造力を高める年賀状」(2023.1.9)

  前回、「忘れた過去は自分の人生とは言えない」と書いたが、日頃は忘れていても思い起こすことができるならば、それはまぎれもなく自分の人生である。だから人生を充実させたいと思えば、いつでも記憶を呼び覚ませるようにしておくことが大切だ。私には、この随想を書くこともそうだが、年賀状も記憶の覚醒装置なのではと思う。今年は、80枚ばかりの年賀状をいただいた(こちらから出す枚数もほぼ同じ)。殆どの相手には日頃は会うことはない。一時期の付き合いであっても思い出すことはある。楽しいことに限らず、恥ずかしい自分の振る舞い、悔しい事実もその記憶の内だ。それが人生というものだろう。

    年始の挨拶の始まりは、平安時代に貴族が上司を訪問して昇進を頼むという習慣からだそうだ。江戸時代には武士や庶民にも年始回りが広がったようである(
参照)。年の初めに自分の出世や便宜を依頼する(ゴマをする?)ことは、「虚礼」ではなく「実益」だと思う。年賀はがきが売り出されたのは1949年からだ。私は小学生の時に何人かの友人に年賀状を出していた。年賀状は、その後売上げを大幅に伸ばしたが、虚礼廃止のムードやEメールなどに置き換わったこともあって、最近の発行枚数はピーク時の半分ほどだ。

   今年の年賀状には、年賀の挨拶や身の回りの出来事以外に、ロシアのウクライナ侵攻に触れたものが何枚かあった。職場の先輩のSさんの賀状には、「ウクライナには何の支援もできませんが、突然のソ連軍侵攻で満州引上げの際の亡き父母の苦労を偲びながら、ウクライナにEmpathyを送ります」と書かれ、近所のヒマワリ畑の写真が添えられていた。事件が起きると、過去に起きた類似の事件が思い出されるのは普通のことだが、受け取った年賀状を読み直すと、差出人の心の在り方が分かる気がする。

    茂木健一郎氏(脳科学者)は、ある本で「情報や知識をインプットする量では、人間はもはやAIに太刀打ちすることができません。これからは「思い出す力」を取り入れることが、重要なポイントになるのです。脳が思い出そうとしている時に使う回路は、脳が新しいものを創造する時に使う回路と共通しています。」などと書いている(AI時代の脳)。つまり、思い出すことで、今の人生を充実させるだけではなく、創造力を更に高めることができるらしいのだ。だとすれば、年末年始は、創造力を高める良い機会になると思われる。習慣となっているが故に、年賀状は人々に「思い出す力」を無理なく与えてくれる道具である。 (先頭に戻る

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No.306 「2022年という年」(2022.12.27)

  時が速く過ぎると感じるのは、一日の出来事を忘れてしまうからだと思う。寝る前に一日を振り返ると、思い出せないことがある。何かに夢中になった後で、「もうこんな時間になった」というのとは違う。毎日単調な生活を送っているが、気がつけばもう年の暮れ。「忘れた過去は自分の人生とは言えない」と悟った。

    年末に人生で初めてリコールを経験をした。数年前に購入したブリヂストン自転車でステンレス製リムの
リコール(無償交換)があった。リムは回転軸から何本ものスポーク(針金)を出して車輪を支える役割をするものだが、溶接が正しく行われていなかったという。今年の夏に車輪からスポーク3本が外れて、近所の自転車店でスポークを交換してもらった。時間が経って錆びたせいかと思っていたが、このリコールの理由と関係があったのかもしれない。自転車を購入した時に顧客登録をしておいたのが正解だった。メーカーからリコールを告げるハガキが突然送られてきた。無料で新品に交換してくれるという。12月2日に家から少し離れた指定の店に自転車で行き、リムを交換してもらった。ついでに、古くなっていたチューブとタイヤ(IRC井上ゴム工業製)も交換した。前後のタイヤで1万円近く支払ったが、自転車は新品同様の滑らかな動きになった。顧客としては文句を言う立場だったが、メーカーは欠陥を認めて顧客と連絡をとり、丁寧に指定の店を紹介してくれた。会社の誠意を気持ち良く感じた。

   今年、最も驚いたことは、7月に安倍晋三元首相が暗殺されたことだ。その報道の中で、安倍氏が統一教会や勝共連合と長い付き合いがあり、その広告塔の役割を果たしていたことが公になった(7/30文春)。森友学園の国有地払い下げや加計学園の獣医学部新設のスキャンダル、政府主催の桜を見る会に安倍氏が多数の後援者を招待したことは不愉快だったが、統一教会事件は、実際に大勢の被害者がいるだけに深刻な問題だ。党内最大派閥の安倍派は、依然、政権の中枢で強い影響力を発揮している。安倍氏の国葬は国民に大きな反発を引き起こした。詐欺集団の旧統一教会が新たな宗教法人として認可された経緯は未だに明らかにされていない。被害者救済法が12月10日に成立したが、救済に携わってきた弁護士らは「救済法はないよりましな程度、早急に見直して欲しい」と批判している(12/11記事)。

    2番目にショックだったことは、2月にロシアがウクライナ侵攻をしたことだ。その後の世界の動きも気になる。国連憲章により戦争は禁止すべきこと(犯罪)とされて久しいが、攻め込んだロシアも、ウクライナに武器を供与しているアメリカやヨーロッパ諸国も、停戦や和平の斡旋に動いてはいない。当初は停戦協議が繰り返されたが、今では協議の予定すら立っていない。
    岸田内閣は12月に、防衛費の倍増方針(GDPの1%を2%に)と敵基地攻撃能力(反撃能力)を持つ方針を決定した(11/28首相指示12/16閣議決定PDF)。自衛隊の増強と防衛費増額はアメリカの要請でもあったので、「バイデン政権は大歓迎」と報じられている(12/17毎日)。テレビを見れば、戦争が一旦始まったら頭上にミサイルが遠慮なく落ちてくることが分かる。日本国民は生活を犠牲にしてでも軍事を優先したいのだろうか、あるいは武力を増強すれば戦争が起きないと考えているのだろうか。隣国の人々はどう感じているのだろう。嫌な予感がする。憂鬱になる理由の一つはここにある。 (先頭に戻る

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No.305 「ダーウイン: 種は由来で決まる」(2022.12.18)

  2022年のノーベル生理学・医学賞の受賞者は、スエーデン出身で、ドイツのマックスプランク研究所に所属しているスバンテ・ペーボ博士だった(記事)。絶滅した人類の遺伝情報を解析する技術を確立したとして評価されたのだという。 彼の研究で、私たちホモサピエンスは、ネアンデルタール人の遺伝情報の一部を受け継いでいることが突き止められた。生物学の種の定義を交配できるかどうかで決めるならば、ホモサピエンスは、ネアンデルタール人と同じ種(又は亜種)ということになる。
   そもそも種の定義は明瞭ではない。広辞苑には、種とは「生物分類の基本単位」、「形態・生態の特徴の共通性や分布域、生殖可能性や遺伝子組成などで他種と区別しうるもの」の説明がある。

    ダーウインは、「種の起源」の後半部分で、「種の地理的分布」、「生物の相互類縁、形態学、発生学、痕跡器官」について記述している。神様が種を創造したという説に対抗するため、例えば、大陸から1000kmも離れた島に大陸と似た植物が生育している現象を、自然選択説の立場から説明している。その際、鳥や海流によって種子が運ばれることを、コウノトリなど鳥の糞から排出された種子や海水に浸かった種子を発芽させる実験で確認している。島の植物が大陸の植物に由来している可能性を示したのだ。
   また、生物の分類の指標となる形態的な要素や特徴のことを「形質」と呼ぶが、胚(卵や幼生)の過程で消えてしまったり、痕跡として残ったりしている形質もある。ダーウインは、「種の判別は、生存に重要な形質の違いだけで行うものではない」と主張し、「形質は、由来を示すものに限って分類のために真に重要である」と書いている。「由来を示す形質」の意味は、共通祖先からたどれる系統の特徴のことである。
    現代の生物学では「由来」の確認方法は、遺伝子解析(核やミトコンドリアDNAの塩基配列の比較)によって、種や亜種など近縁を示す系統樹を作成するのが一般化している。ダーウインの時代には考えられなかった科学の進歩の結果だが、「由来で種が決まる」という考え方はダーウインのそれと同じである。

   スバンテ・ペーボ氏の研究では、ホモサピエンスとネアンデルタール人とは、実は同じ種の亜種のような関係であったという由来が示された。現在の国を形成する人々は、由来を質せば数万年前にはアフリカから出て世界に広がったホモサピエンスの子孫だ。ホモサピエンスには、国家の壁を乗り越え、一つの種である人類の普遍的な価値を大切にして生き続けて欲しい。 (先頭に戻る

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No.304 「アメリカザリガニどう扱う」(2022.12.13)

  子どものころ、家の周りの小川でアメリカザリガニを捕まえてきて、祖母に七輪の炭火で焼いてもらった経験がある。結構おいしくいただいたと記憶している。その名前のとおり外来生物である。外来生物法では、カミツキガメ、アライグマなど害を与える生物を特定外来生物とし、罰則を設けて飼育や栽培を禁止している。アメリカザリガニ科の種は特定外来生物になっているが、そのうちのアメリカザリガニだけは、規制はされていない(資料)。どうやら、日本中で増えすぎてしまったことに理由がありそうだ。環境省は、今のところ、「新たに入れるな、飼育しているものは逃がすな、生育範囲を広げるな」と要請するにとどまっている。社会にとって悪いもの(例えば、政治家が献金や選挙応援を受けているカルト教会や、巨額の不良債権を抱えた銀行など)でも、あまりに大きくなりすぎると多数の利害関係者がいるので、駆除する(銀行などの場合は倒産させる)ことは敬遠される。アメリカザリガニの扱いも似ている。

   アメリカザリガニは繁殖力が強く、水草を切り取ったり、フナやドジョウなど日本固有の生き物を食べたりして悪影響を与える。他方、今の子どもたちに野生生物を学ぶ機会(遊びの機会)を提供してもいる。飼育している家庭があり、47都道府県のどこの河川にも生息している。私の家の周辺でも、かつて田んぼで今は中学校の運動場になっている場所がある。その縁(崖の下)には、水が滲みだしている水たまりがあり、数十匹のアメリカザリガニがいる。狭くて日当たりが悪い場所でほそぼそと生きている。私の友人は、防犯パトロールのコースの途中で覗き込み、「昔はこの辺りにもホタルが出たんだよ」などと懐かしがっている。
   野生の外来種が非常に増えているのは確かだ。だが外来種だからという理由で駆除すればよいわけではない。ジャガイモも家猫も外来だが有益である。人畜に害を及ぼすもの、在来種を滅ぼすような強い影響力を持つものは排除しなければならないが、影響の程度に応じてほどほどに扱うのが良いと思う。そのためには、どこにどんな生物がいるのか、何を食べ、どのように繁殖し、周りの生き物にどんな影響を与えているのかなどの調査が必要だ。しかし、こうした調査研究は限られている。

   最近、進化生態学者の岸 由二さんの講演「流域思考の多自然ガーデニング」(⇒Youtube)を聞いた。公園整備と自然保護と防災とを調和させた市民活動の紹介である。鶴見川(神奈川県)の源流域で特定外来生物のアレチウリを取り除いて、オオムラサキ(蝶)の好むエノキを復活させたり、神奈川県三浦市の小網代の森の保護活動では、在来種の植物が復活するまではセイタカアワダチソウ(特定外来植物)を一部残して、アサギマダラ(蝶)の餌(蜜源)にしたりしている。外来だというだけで単純に排除するのではなく、外来生物の力も利用して在来生物の保護を進めるやり方に目を開かされた気がした。 (先頭に戻る

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No.303 「鎌倉殿のドラマで見えたこと」(2022.11.30)

  先日の日曜日(27日)は、地元のスポーツ推進団体が企画したウォーキングで、千葉市の亥鼻(いのはな)公園と中央博物館に行った。亥鼻公園は、千葉常胤(ちばつねたね)の屋敷跡にできた公園である。鉄筋造りの城(市立郷土博物館)の前庭には千葉常胤の銅像が立っている(下写真)。館内では「頼朝から父と呼ばれた男」として紹介されていた。NHKのドラマ「鎌倉殿の13人」は、現代感覚で作られたドラマだが、史実は踏まえられているようだ。
    私が学生の時には、鎌倉幕府の始まりは頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年と習ったが、歴史研究が進んだ今日では、頼朝が全国に守護・荘園に地頭を設置し御家人を全国に送り込んだ1185年との説が有力だ。武士が自らの力で全国を統治できるようになった年だからだ。頼朝の血筋は、第2代の頼家、第3代の実朝で絶える。その後の将軍は京都から迎えるが実質は北条一族の政権となり、承久の乱後は天皇や宮中の人事も鎌倉が関与するようになり、完全に武士の時代となる。

   本郷和人さんの「日本史を疑え」(文春新書2022年5月20日発行)には、千葉常胤についての記述がある。平治の乱で源氏が敗北した後、常胤のもとに源義家の孫の源頼隆が配流されていた。常胤は大事に育てていたが、石橋山の戦いで頼朝が敗北し房総に渡った後には、頼隆を頼朝に差しだして、頼朝に忠誠を誓った。常胤は義家の孫の庇護者として自分を権威付けようとしたが、もっと権威のある頼朝が登場すると、あっさりと頼朝の家来になったというのである。関東武士は、中央の平家支配を打破したいから戦ったのではなく、頼朝の力(後白河上皇との交渉力)を借りて、自分たちの土地支配を保証してもらうために戦ったという説明だ。事実、平家軍を富士川の戦いで破ると、頼朝は上総広常(かずさひろつね)や千葉常胤の意見を入れて、東国平定を優先し、配下の武士に論功行賞(土地の配分)を行ったりしている。上総広常は頼朝に誅殺されるが、千葉常胤は、御家人の代表(宿老)である鎌倉殿の13人にはならなかったものの、有力御家人として栄えている(千葉市の町の基礎を作ったとされる)。
   私は、ここに武士の本質を見る気がした。自らと一族の利権確保のために、先ずは「強いもの・勝てそうなもの」に味方するという功利の(合理的)姿勢である。軍記ものや歴史小説では、勝利した側を美しく描いたり、義理や人情を重んじて敢えて弱いものを助けたりする人物として武士が描かれることが多い。しかし実際は、自分の利益を最優先し、用心深く相手を調べ、間合いを取り、隙があれば攻め入るというリアルな感覚をもった武装した階層(個人と集団)だった。この武士の本性は、戦国時代はもとより、江戸時代もそして現代にまで、憧れを抱く人さえいて引き継がれている。目的(自らの正義=権益)のためには人を殺傷することもためらわない。民主主義や平等を重要な価値とする現代社会においても、例えばミャンマーの軍事政権などでそのやり方を見ることができる。 (先頭に戻る

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No.302 「旧統一教会とウクライナ」(2022.11.17)

  10月後半になって気温が低い日が続いたせいか、コチョウランの花茎が葉の間から顔を出し始めた。育て方の本には、18℃以下が何日か続くと花芽の形成が始まると書かれている(記事)。ただし、この秋はまだ室内の気温は20℃以下になったことはないので、18℃という水準よりも温度の変化の程度が大事なのかと思う。これから楽しい季節が始まる。

   コロナ感染とウクライナ戦争については、毎日のように報道されている。旧統一教会の非人道的な活動もときどき報道がある。今週は、旧統一教会が信者同士での養子縁組745人を斡旋してきたとの報道があった(11/17報道)。養子縁組斡旋法に違反する行為でもある。数百万~数億円(家庭が崩壊するほどの金)を信者に寄付させているから、信者へのサービスの面もあるが、本当の狙いは2世代、3世代にわたって信者を囲い込むことだろう。教団の斡旋で一方的に行われる養子縁組により、子どもは悩んで自殺するケースもあると聞いた。教団に従わない信者には、「地獄に落ちる」などと説明される(又は「脅かされる」)ので、極端に信心深い人(マインドコントロールされた人)にとっては抵抗はできない。更に安倍晋三氏などの政治家が教団と結託していることを見せつけられれば信者に留まるしかなくなる。この詐欺集団は、自衛隊を憲法に明記させ、家父長制の復活と男女平等に反対する政策を掲げる政治団体でもある。国会での審議を通じ、宗教法人法に基づく調査が開始されることになった。被害者救済新法の検討も始まった。安倍晋三元首相が生きていれば、岸田内閣には許されなかった方針なので、私はこの動きを歓迎している。

   ウクライナ戦争については、ロシアが東部4州の併合宣言をした後に、ウクライナ軍がその一部を奪回したり(10月記事)、州都ヘルソン市を奪回するまでになった(11月記事)。劣勢気味となったロシア軍は、ミサイルで発電所や交通施設などインフラ施設の攻撃をしている。そうした中で、15日夜にミサイルがウクライナ国境近くのポーランド側に着弾し、ポーランド人が2人死んだとポーランド政府が発表した。ゼレンスキー大統領は「ロシアがポーランドに撃ち込みエスカレートさせた。NATOは行動が必要だ」と演説をした。
   しかしウクライナ大統領の発言は、NATO諸国には歓迎されていない。NATOは、ウクライナの迎撃弾がポーランドに発射されたと見ている(11/17記事)。バイデン大統領は、「ゼレンスキーの発言は根拠がない」と否定した。17日朝には、英国やドイツなどのメディアが「ウクライナがNATOを戦争に引き込もうとするのは止めて欲しい」という関係者の声を報道していた。日本でも、鈴木宗男氏(ロシアに詳しく収賄事件で服役した)は、16日にこの事件を取り上げて「政治家やメディアは、ウクライナの主張を鵜呑みにするのではなく、真実・事実のみを報道して欲しい」と書いている(ムネオブログ)。
   私は、民族紛争はとても複雑なので、一方を無条件で支持することは危険だと考える。国際法違反のロシアではあるが、ウクライナ政府やG7の主張が全て正しいとも思われない。ロシアへの経済制裁は効果を挙げておらず、むしろ制裁する側の国民に物価高をもたらし、アフリカの飢餓を増やしている。精密で強力な兵器を売ることができ、石油を産出していて、小麦輸出国でもあるアメリカには都合が良いだろうが、戦争を終わらせることには繋がらない。ウクライナへの武器援助は、その引き換えにロシアからの無差別攻撃を引き起こしている。暖房が無ければ人が死ぬ冬を迎える。今回の事件で、ウクライナを支援してきたヨーロッパの人々が、支援疲れとは違った意味でウクライナの言いなりなることの恐ろしい結末に気がつき始めたのではないだろうか。国連などによる停戦交渉の仲介・斡旋が始まること切に願っている。 (先頭に戻る

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No.301 「進歩する渋皮煮の作り方」(2022.10.29)

  旧統一教会から支援を受けたり、広告塔になっていたりした議員の話題が続いている。政府はようやく宗教の仮面をかぶったこの詐欺集団に宗教法人法に基づく調査を始める決意を固めた(10/25記事)。団体との関わりを追及されていた1人(山際大志郎大臣=麻生派)は10月24日夜に辞表を提出した(記事)。最大の広告塔だった安倍晋三氏を国葬にしたことや旧統一教会擁護の姿勢が続いたために岸田内閣の支持率は最低となっている。日本人は忘れっぽいという説もあるが、次の国政選挙があるまでは、我ら国民は、政権中枢が詐欺集団に強い影響を受けているという深刻な問題を忘れないでいて欲しい。

   ウクライナ戦争や物価高が話題になる中では気持ちが落ち込むことが多い。そこで先週の晴れた日に筑波山近くに行った。農産物直売所で栗、柿、サツマイモを買った。そして昨日、栗の渋皮煮を作った。栗は、一袋25個入り(1,580円)で、購入した時は960gだったが、調理の直前に量ったら824gだった。袋から毎日10g以上水分が抜けている(毎日1.0~1.3%ほど軽くなる)計算だ。
   今回、気が付いたことだが、栗の水分が簡単に抜けるのは、茶色のつやがあって硬そうな鬼皮(リンゴやミカンでいえば皮ではなく果肉に当たる)が、もともと水分が抜け易い構造だからだ(説明)。また購入した栗には「虫止め処理済み」と書かれていた。処理とは、栗の中の虫の卵や幼虫を殺すために熱湯や塩水に漬けることをさす(説明)。虫止め処理済みは余分な水分が相当に含まれているから急速に水分が抜けるのは納得できる。水が抜けなければカビが生える恐れもある。購入後は早めに加工するのが良いといわれるのもうなずける。

   2017年の随想に渋皮煮の作り方を掲載した(No.87)。この時の記述と比較すると、近年の私の渋皮煮の作り方は、次の3点が改善されている(参照 大原レシピ)。
   ① 鬼皮の剥き方:事前に熱湯で3分ほど煮ると、鬼皮と栗の種との間に水分が入り込み、鬼皮が柔らかくなって、ナイフが入れやすくなる(下写真2)。ニッパなど使わなくても、切出しナイフと指だけできれいに鬼皮を除くことができる(下写真3、4)。
   ② 重曹の量:栗1kgに対して重曹を大さじで1杯入れていたが、小さじ1杯で十分効果があることが分かった。重曹(炭酸水素ナトリウム)は、剥いた栗の表面のタンニンを含む繊維状の薄皮を柔らかくできる。指の腹でこするだけでも、繊維分がきれいに取れるようになる(下写真5))。
   ③ 煮る時間:煮る時間は以前は15分としていたが、10分でも十分である。長時間煮れば煮崩れする。煮足りないときは、砂糖を入れた後に煮る時間で調節できる。通常は15分煮るところを、5分から10分延長して煮れば、煮崩れを避けながら柔らかな仕上がりとなる(多少煮崩れたのが好みという人もいる)。
   今まで10個に1~2個は煮崩れしていたが、今年は全く煮崩れがなかった。調理方法には限りがない。プロは新しい方法を見つけるため、条件を変えて何度も試行しているだろうと想像する。  (先頭に戻る

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No.300 「記憶が有る・記憶が無い」(2022.10.18)

  この随想は300回を迎えることができた(初回は2016年3月)。随想を書くのは自分の考えを整理するためと、忘れっぽい自分の経験や気分を記録し残したかったからだ。昔から付き合いのあった人、元職場の同僚、退職後に知り合った人に、このサイトを知らせてきた。感想やコメントを下さる人もいて、私にとって大いに励ましになっている。皆様、ありがとうございます。

   先週15日(土)に、名古屋で行われた卒業後50年の祝賀会に参加した。50年ぶりだ。卒業後もときどき会ってきた2人以外は、誰が誰か分からなかった。これまでの仕事、今の生活、山登り(若い頃は高山、今は低山)や絵画など趣味の話が出た。話しながら少しずつ記憶がよみがえってきて、別人の印象が消えて昔の面影が見えてきた。個人営業や地元ボランティア活動をしている人が多い。かつての若者達は高齢になって、それぞれの健康と生活を大切にしていることが分かり、心が温かくなった。
   50年前でも印象に残っていることは思い出すことができる。しかし、完全に忘れている状態の場合は、「記憶が有る」とも「記憶が無い」ともいえない。祝賀会の会場の向かい側に遊水地があるのを「発見」した。こんなところに池があったのかと不思議だったが、教員に聞くと昔からあったという。皆と話をしていて確かにあったと思い出すことができた。記憶とはそうしたものだと思った。ある事について忘れるときには、その詳細も含めて全てを忘れるのだ。

   10月17日の衆議院予算委員会で岸田首相は、「旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に対して宗教法人法に基づく調査を文部科学大臣に指示した」と発言した(
NHK10/17)。自民党の多くの議員が、韓国の文鮮明の創ったこのカルト教団から寄付をもらったり、選挙で支援を受けてきた。教団を解散させろという世論の多数意見に圧されて、漸く動き出したという印象があるが、多くの統一教会関連団体も対象にして、徹底的に調査をやってもらいたい。地方議員でも旧統一教会から支援を受けてきた人が多数いるとNHKが報道していたから、来年春の地方選挙で有権者はしっかり判断しなければならない。
   贈収賄事件や法令違反にかかわった議員が、「そのようなことは記憶にございません」などと釈明した例をこれまで何度も見てきた。他のことは忘れたといいながら、悪事にかかわっていない点だけは、妙にはっきり覚えている。信じられない。今回も「旧統一教会だとは全く知りませんでした」と釈明した議員も多数いた(自分が選挙支援を受けたりイベントで挨拶をしたりするのに、その団体がどんな団体か知らないはずはなかろう。そんな重要なことも調べずに政治家が務まるのか!)。それとも安倍晋三元首相からの指示で参加しただけだから、自分に聞かれても困るということなのか。広辞苑には「いけしゃあしゃあ」の意味として、「いけ」は接頭語で、卑しめののしる様子を表す接頭語、「しゃあしゃあ」は羞恥心がなく言動があつかましいさまとある。こうした議員の言動を表現するには、「いけしゃあしゃあ」がピッタリだ。    (先頭に戻る

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No.299 「不安定化する日中関係の懸念」(2022.10.5)

  一昨日(10月3日)の月は、上弦の月だった。西の空に月が沈むときに上半分は暗闇で、下半分は光っている。闇と光の境界は、直線ではなくデコボコしている(下写真)。クレーターのような模様も見える。光りと闇の境目だからこそ、満月では見えなかったものが見えるのは面白い。

   9月29日に日中国交正常化50年の記念行事が開かれた。50年前のこの日(1972年9月29日)に田中角栄と周恩来とが面会して日中共同声明が出されたことを記念したものだ。両国間の戦争状態はようやく解消され、国交の正常化が始まった。曲折はあったが、現在の中国は日本の最大の貿易相手国となり、コロナ前2019年の中国からの来日観光客は959万人と、経済的・人的な結びつきはとても深くなった。だから50年目の行事は大々的なものとなるはずだったが、小規模になった(記事9/30)。背景に尖閣諸島問題、米中の覇権争いと技術流出問題、香港民主化運動抑圧などによる国民感情の悪化がある(内閣府調査)。
   日中国交50年の節目に毎日新聞は、日中関係のあり方について識者の意見を掲載している。例えばこんな意見だ。「日中共同声明や78年の日中平和友好条約を再確認することが一番大切。米国のお使いのような外交をやめ、日中が対話する以外に道はない」(河野洋平元衆議院議長)、「対話と相互理解のための交流の制度化が必要」(北京大学教授王新生氏)、「高まる台湾への脅威に備えよ」(トランプ政権安全保障担当大統領補佐官マクマスター氏)、「中国の民主化は避けられない。長期的視点で対話と交流が必要」(丹羽宇一郎元中国大使)、「台湾有事備え 中国と対話を」(元駐米大使佐々江健一郎氏)。
   日本と中国の識者は「対話」や「交流」の重要性を主張しているのに対して、マクマスター氏は、日本と中国とが対話をすることは全く求めておらず、逆に中国を敵視する立場から、「強力な防衛力なしに戦争は抑止できない」として、日本の軍事費拡大、エネルギーやサプライチェーンでの日米連携が大事だとしている。日本政府への影響力が強い人物であるだけに、この意見は不安になる。

   それでも私は、これらの識者の意見を読み、台湾有事(戦争)が現実に起きることはあり得ないと思った。台湾の人もそうだが、日本の産業界も国民も中国と武力衝突は望んでいないからだ。互いに不可欠な貿易相手だ。しかし一抹の不安はある。台湾海峡で偶発的に武力衝突が始まり、在日米軍基地からミサイルが中国に発射されたときには、中国が日本の米軍基地を攻撃することはあり得る。平和安全法制(戦争法とも)が成立したことで、自衛隊が戦闘に加わると考えられるからだ。ウクライナでの戦争のように、日中双方がとても悲惨な結果になることは明らかだ。やはり日中外交は「対話と交流が大事」というしかない。
   上弦の月の境目でデコボコが分かるように、米中関係がかってなく悪くなっている今、日中関係が順調なときには気づかなかったことが意識される。「日米同盟の強化で安全が確保される」と思い込んでいるうちに、覇権争いをする米側の最前線に日本人が立たされてはたまらない。米国政府の高官の意見ではなく、日本人は自ら考えて誤りのない隣国関係を見つけていかなければならない。   (先頭に戻る

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No.298 「ダーウイン: 無いことの証明」(2022.9.23)

  下の写真は、No.193「夜空に二つの月 1Q84の世界?」で掲げた月である⇒(No.193 )。カメラのレンズ内の反射が作用して2つの月が写ったようだ。この写真を根拠に、私が「月が2つになった」と言ったら正気を疑われるだろう。人々が自然界の事象を観察したとき、観察の対象についての理解や解釈が異なることで、結論が大きく異なる場合がある。同じものを見ているはずという気分があるだけに、相手に納得してもらうことには困難を生じる。

   ダーウインが自然選択説を提案したとき、解剖学者や古生物学者から次のような批判があった。
   「小さな変異が生存に適していることで亜種が生まれ、更には種が生じるとする自然選択説が正しいとするならば、どうして、現代の種につながるまでの連続した化石や地層の痕跡が見られないのか」、「化石とは、太古の時代に(神様が)創造した生き物が天変地異で滅んだことの証拠であり、自然選択説を裏付けるものではない」などだ。
   化石の扱いは、天地創造説の側も進化説の側も困ったようだ。「なぜ山の中に魚や貝の化石、得体のしれない骨の石があるのか。」は難問だ。信心深い庶民は、「神様が気まぐれで石を使ってお創りになり、山の中に隠されたのだ」として理解すればすむが、学者達はそうは行かない。
   ダーウインは、「種の起源」の中ほど(初版本の9章、10章)で、変異が連続している化石群がないことについて、化石などの発掘(地質学的記録)が不完全であるためと説明している。そして、化石を含む水成岩層(堆積岩)のできるまでの数千万年・数億年の経過、化石などの標本収集の貧弱さ、同じ種で化石ができる条件(浅い海底で沈下がある場合に限られる)など、変異が連続する化石群がでてこない理由を列挙している。そして、そもそも、その種の個体数が多くなければ化石として残る可能性は低いのに、絶滅に至る種は個体数が極端に少なくなっているという説明もしている。
   当時の人達が、ダーウインのこの説明に納得したかどうかは疑わしい。そもそも、化石の発掘や研究自体がほとんど行われていない時代の話だ。無いことの証明(消極的事実の証明)は難しい(解説)。「証拠が無いことは、無いことの証明にならない」という格言もある。しっかり調査をすれば証拠が出てくるかもしれないということだ。しかし、自然選択説を提唱する側のダーウインには、その時代に、相手が納得できる説明を提供しなければならなかった。

   現代では、世界中で古生物学者たちが競い合うようにして化石の発掘を行い、絶滅した生物の姿が、自然史博物館などで復元・展示され、DNA解析によって種間の近縁関係の詳細も説明できるようになってきた。自然選択説の正しさが、いずれは化石などでも説明される日がくるだろうと思う。「種の起源」には、当時の地質学の最先端の説明がなされている。その文脈からは、地質学者であったダーウインの「分かってもらいたい」という熱意ともどかしさが強く感じられる。(先頭に戻る

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No.297 「根のあるやつは」(2022.9.15)

  先日友人から「暦は白露、お元気ですか」というたよりがあった。日光に行ってきたとのことで、華厳の滝の写真がついていた。猛暑の夏が終って、吹く風に秋が感じられる。我が家のリビングルームは南西向きなので、部屋の奥まで日差しが入ってくるようになった。植物は陽光を敏感に感じ取っている。洋ランのパフィオペディラムが一斉に花芽をつけて伸びあがってきた(写真中)。例年12月頃に咲き始めていたものだが、昨年春に株が大きくなり過ぎたので株分けをし鉢を分散させた。日当たりや栄養が満たされたせいか、花芽の付き方が今年は早い。
   このパフィオペディラムは10年ほど前に人から頂いたものだ。当初は過湿を嫌うコチョウランと同じ程度の少ない水やりだったため、株が小さくなって枯れかけた。水不足に気が付き、常に湿った状態になるほど水やり回数を増やしたら根がしっかり張り、近年は毎年咲いている。

   先日、「男はつらいよ(2020年 お帰り寅さん)」を見た。渥美清本人の過去の映像を上手くつなぎ合わせて、現代の話に組み込んでいる。現代的な話題(難民問題など)も背景に出てきている。昔見た映画の記憶も残っていたので、感慨深く楽しく鑑賞できた。映画で歌われる「男はつらいよ」(歌詞)の一部に、「ドブに落ちても根のある奴は いつかは蓮(ハチス)の花と咲く」がある。この歌詞は良く考えられていると思った。植物にも動物にも水は欠かせないが、蓮やスイレンは、水に浸った状態(蓮田や池)でなければ生きていかれない。食糧として重要な稲は水をはった田んぼで育てられる。蓮も稲も根に酸素を取り込む重要な仕掛けがある。畑が水に浸かると生育が悪くなる麦の根とは違う。水と空気(酸素など)とのバランスが植物の生長に欠かせないように、人間を精神的に成長させるためには、水に浸かるような困難や課題に出くわすことも必要なのではないかと思う。むしろ傲慢な人間は、ときどきはドブに落ちるような経験が必要だと思うぐらいだ。そのときに根が重要な役割を果たす。人間の場合は根性ということかもしれないし、どこでも根が張れる柔軟さということかもしれない。

   根を含む表現は多い。「根に持つ」、「根も葉もない」、「根を切る」、「根を張る」、「根深い」など。9月8日、自民党は、旧統一教会と接点をもつ議員が179人だったと点検結果を発表した(動画記事)。翌日の新聞は、関わりのある議員の多さと、金銭や運動員で便宜を受けた政権幹部の多さから、「統一教会が自民を侵食」、「霊感商法 根絶難航か」などの見出しで報じ、社説でも指摘をしている(社説例)。反社会的団体が国会議員と政権の中に根を張っていたのでは、政策がゆがめられてしまう。広告塔になって団体の活動を助けるのでは、その犠牲者を増やしてしまう。安倍晋三元首相が広告塔になっていたことは本当に罪深い(この人の国葬だなんてどうかしている)。やっとの思いで当選したのだから議員の地位にしがみついていたいだろうが、宿弊の根を切るため、解散・総選挙をして根本から出直して欲しい。 (先頭に戻る

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No.296 「ダーウイン: 雑種についての考察」(2022.9.3)

  自然界には複雑で分からないことが山のようにある。問題や矛盾を発見すれば、可能な限りの知識と情報を集め、論理的思考を駆使して、推測したり、想像したり、実験をしたりして、解決策を考えることになる。「種の起源」は、全体が14章で成っていて、第8章では雑種について論じられている。もちろん自然選択説に対する批判や誤解に答えるためである。1859年頃は、交雑(遺伝的に違った形質を持つ個体間の交配)すると不稔(不妊や種子が稔らない性質)になるのが普通だと考えられていた。つまり自然選択で生まれた変種や新しい種が交雑して、その子孫が続いていくことは難しいと思われていたのだ。

   当時の普通の知識では、変種どうしの交雑によって不稔性が高まるのでは、生きていくのに好都合な変異が維持できず、種にまで進化することはあり得ないことになる。ダーウインは、植物学者や博物学者による交雑に関する研究事例を集め、最初の交雑と雑種の不稔性、交雑した変種の稔性、種間雑種と変種間雑種との稔性以外の比較の論点に分け、それぞれ記述している。そして、動植物の種類によって例外はあるものの、全体としては、「交雑によって稔性が増加することもあれば低下することもある」ことを見つけている。更に、「交雑による不稔性は自然選択で適応した変異の性質とは関わりが無い」、「2つの種を交雑したとき一方の種の優越性が雑種に現れることがある」などを説明し、「不稔の程度は親の形質による偶然」などと結論付けている。
   第8章に記述された多くの交雑に関する研究事例を読むと、初めは何を言わんとするのか理解できなかった。しかし、読み進むと、研究事例の中には、現代の学術用語で言えば
「雑種強勢」「近交弱性」「不和合性」などの現象について語っていることが理解できた。この論考が書かれた当時は、メンデルの遺伝法則(優劣の法則・分離の法則・独立の法則)は知られていなかった。限られた情報の中で、複雑な現象にみえる論点を切り分け、大局的視点に立った説明には感心せざるを得ない。

   ところで、ダーウインが「種の起源」の第一版を出したのは1859年だが、メンデルが「メンデルの法則」を公表したのは1866年で、世界に広く知られるのは1900年になってからだ。メンデル以前にも交配実験を行った者はいたが、形質が安定している純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかったといわれている。メンデルは、交配試験をする前に2年かけて形や色の異なるエンドウ豆の純系を育成した上で、交雑研究を開始し、数学的な考え方を用いて結果を出した。何かをなそうとすれば、その準備や方針が間違っていないか、しっかり検証することが必要だ。「真面目に頑張った」というだけでは、努力が無駄になるどころか、間違った結果を招くことさえある。軽はずみな言動をする私だからこそ、ダーウインやメンデルから学ぶべきことがあると思う。 (先頭に戻る

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No.295 「ダーウイン: 進化の難問と宿題」(2022.8.25)

  ダーウインが「種の起源」を書いた狙いは、創造説との戦いに勝つことだった。創造説とは、旧約聖書の神が天地や生物を造ったとする考えだが、ダーウインは、この創造説を支持する大勢の学者・知識人(例1例2)の説を相手にしたのだ。実際、ダーウインの進化論では、容易には説明がつかない現象も多くある。ダーウインの自然選択(Natural Selection)の仮説は、動植物の種の全てを対象にしたものなので、1つ、2つの種で説明できたとしても意味はない。全ての種の存在理由(進化した理由)が自然選択説で説明されなけれならない。そこに、ダーウインの頭を悩ませる難問があった。

   自然選択説というのは、生き物の個体に生じるわずかな変異が、世代を経て積み重なって、厳しい環境に適応できるようになったり、他の種との競争に勝ち残ったりして、種が造られていくという考え方である。厳しい環境や他の生き物の存在(自然)こそが、新種への進化と種の絶滅を促しているという考えだ。例えば、寒冷地では、わずかに毛が多いとか、皮下脂肪が厚いなどといったことが生存にとって重要となる。寒冷化が進む状況では、寒冷に耐えられたものが生き延びる。そして温暖な地域に棲む共通の祖先の種とは明確に異なる程度に変異して亜種となり、更にその亜種が元の種と交配できなくなった段階で新種になるという種の進化の仮説である。

   ダーウインの頭を悩ませたのは、例えば、目玉のような完成度の高い器官がどうやって作られたのか、あるいは、教わることなしに行動できる本能といわれる能力も、ハチやアリのような家族の分業(女王や働きアリなど)も、わずかな変化の積み重ねによる自然選択で説明できるのかという問題だった。ダーウインは、こうした難問を、膨大な情報を集めて、個別の章立てで丁寧に説明している。当時は遺伝という言葉はあっても、遺伝子(DNA)は知られておらず、野生の生き物の生態が殆ど分かっていない時代だった。ダーウインは、分かっていないことが多すぎると認めながら、あるいは、分からないからこそ大胆になれる論理と想像力を発揮して、創造論者から出される反論に答えを与えている。

   自然選択の考え方は仮説ではあるが、現代では圧倒的な人に受け入れられている。人気がありすぎて誤解する人や悪用する人もいるほどだ(⇒改憲に悪用した例)。ダーウインは「種の起源」を第6版まで改定したが、細部については、現代では疑問視される部分もある。例えば、ダーウインは、「魚の鰾(うきぶくろ)は浮上のための目的の器官だったが、血管に富んだ隔壁で区画されているために、わずかな変異が生じて、呼吸という全く異なる器官(肺)となった」と記述している。この記述に関しては、2016年に研究者グループの発表が、「ダーウインの想像とは異なり、肺から鰾に変化した可能性がある」として新聞で紹介された(記事1記事2)。こうした発見は「種の起源」の価値を損なうものでは全くない。むしろ、ダーウインの自然選択説の奥深さを感じさせる。ダーウインが後世に残した宿題に、現代の科学者たちが取り組んでいるのだ。今後も楽しい研究成果が出てくることに期待している。 (先頭に戻る

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No.294 「77年目の戦没者追悼式の式辞」(2022.8.17)

  8月15日の追悼行事での天皇陛下のお言葉首相の式辞は、日本の政治や外交姿勢を読みとるヒントになる。今年、岸田首相は式辞で、「広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など」と犠牲の具体例を上げ、「歴史の教訓を深く胸に刻み」、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いをこれからも貫いてまいります」と述べた。
   私は、15日昼のラジオでこれを聞いて、長期政権だった安倍元首相の式辞とは違ったメッセージを感じた。翌朝の新聞は、式辞の大部分は安倍氏、菅氏の式辞の内容を踏襲したとしながらも、岸田派を率いる首相が「岸田カラー」をにじませたとコメントした。旧統一教会の支援をもっとも受けた、党内最大の安倍派には、「安倍元首相の遺志を継げ」という声が大きい。岸田首相が、国会にも諮らず、法的な根拠がない国葬の決定を迅速に決めたり、旧統一教会と政治家との関係の調査には及び腰となったりしているのは、安倍派への配慮に違いない。

   それでも、岸田首相の述べた「歴史の教訓」という言葉は重要だ。中国や韓国との関係を改善しようとすれば欠かせない言葉だと思う。なぜならば、2020年の安倍首相の式辞、2021年の菅首相の式辞には、「歴史」という言葉すら無かったからだ。今年も8月15日に靖国神社(明治政府が作った国策神社)に閣僚が参拝した。首相は玉串料を私費で奉納した。この事実について、中国外務省が、「日本が真剣に歴史の教訓を学び、軍国主義と完全に決別することを求める」という談話を出し、韓国外務省が、「過去の歴史に対する謙虚な省察と真摯な反省を行動で示すことを促す」という指摘をしたことは、まさに、歴史を顧みることが、これらの国との外交関係を改善するうえで、もっとも必要な課題になっていることを示しているのだ。キーワードは「歴史」である。たかが「言葉の使い方」だと思う人もいるかもしれないが、外交関係を良くするための基本は、共通の言葉を持つことだ。少しでも有益な対話に進む切っ掛けになることを期待したい。
   もちろん、歴史認識の内容については、日中、日韓のそれぞれの政府間でかなりの隔たりがある。だから「歴史の教訓」が何を指すのかは問われ続けることになる。日韓併合、満州国設立、日中戦争などで、政府や帝国陸海軍、日本人が大陸で行った侵略行為を素直に見る必要がある。そこには、反省することも多くあり、関係改善のための教訓も山ほどある。私たち一個人としても、戦前・戦中の日本の行為を知ることは必要だし、容易でもある。戦前・戦中を生きた人々の戦争被害者としての苦労や、加害者としての悩みは、インタビューや遺品、記録などで知ることができる。広島・長崎の原爆の被害についても、高校生や大学生が、高齢になった被爆者の生の声を聞いたり、自分たちが伝える側になって活動している報道があった。今や90歳前後から上の世代の人達はごくわずかになってきたことを考えれば、歴史認識は、外交だけでなく、日本国民全体の課題でもある。

   私自身は団塊世代の70歳台なので、これまで生きてきた期間に日本が戦禍にさらされなかったことに、とても感謝している。だから、近年公開された内外の記録によるドキュメンタリーを見たり、関連する著作を読んで、歴史の教訓を確かめることにしている。多数の人が歴史を正しく認識することが、東アジアが紛争のない、豊かな地域になる道になると信じる。そうでなければ、戦没者にも、未来の子孫にも申しわけがない気がする。毎年8月には特にそう思う。 (先頭に戻る

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No.293 「ダーウイン: ハトの種の実証試験」(2022.8.8)

  広場や公園で見かけるハト(写真左)は、カワラバト又はドバト(お寺の境内に棲むので堂鳩が変化したとも)と呼ばれる。同じ場所のハトの集団を観察すると、個体により羽根の色が白(黒)かったり、模様が異なったりと結構ばらついている。日本在来のキジバト(又はヤマバト)とは異なり、カワラバトは、飛鳥時代ころに日本に入った外来種と言われ、元々は中近東辺りに生息している鳥だ(説明1説明2)。

   チャールズ・ダーウイン(1809-1882)は、ビーグル号で世界を航海し、ガラパゴス諸島などの生物を見て「種の起源」を書いた。1859年発行の初版「種の起源」の第一章で、イエバト(伝書鳩や食肉などのために家畜化されたハト)の交配試験の考察をしている。 この考察は、そもそも「種とは何か」を考えるとても重要な箇所だ。「種」と「属」、「種」と「変種又は亜種」との関係が書かれている。ダーウインは、ハトの飼育家と知り合いになり、ロンドンのハトクラブに入会して、何種類かのイエバトを交配して雑種を作り、その雑種の子が完全に生殖可能であることまで調べた。
   例えば、「一様に白いファンテールと一様に黒いバーブを交配して、まだら、褐色、及び黒の子を得て、さらに、それらの子を交配したところ、孫の代の一羽は、美しい青色で、腰は白く、翼に2本の黒条があり、尾羽には、黒条と白のふちどりがあって、まったく野生のカワラバトのとおりであった」などとして、「これらの事実を、もしもすべての飼育品種がカワラバト(Columba livia)に由来するものとすれば、良く知られた祖先形質への復帰の原理にもとづいて、理解することができる」と記述している。
   品種名をクリックしてご覧いただきたい。ファンテール(写真中)もバーブ(写真右)も外見からはカワラバトと同じ種とはとても思われないが、当時の多くの博物学者は、ハトのすべての品種はカワラバトに由来すると考えていたようなので、ダーウインの交配試験の結果自体は目新しくはない。第一章の「飼育栽培のもとでの変異」の記述は、少しでも良いものを残そうとした何千年もの間の人々の選択の積み重ねが、外見上も性質も全く異なる変種をもたらす事実を示したものだ。これは、自然のもとでの変異(自然選択)を理解する前段として、とても効果的だと思われる。また、「種の起源」は、「神様が」ではなく、「自然が」選択をして「種」が成立したことを証明する学術書である。ダーウインの時代は、聖書による天地創造を信じる人達が多かったのだから、学術書とはいえ、一般の人に対しても誤解されないように慎重に書かれなければならなかった。だから、同時代の生物学者や専門家の話を数多く引用しながら、良く知られた事例や実験結果にもとづいて、丁寧に話を進めているのだと思った。

   私の読んだ「種の起源(上)」は、岩波文庫版で八杉龍一訳、1990年2月16日に改定第1刷が発行され、2018年12月25日に第36刷発行となっている。訳者の注書きで、「種の起源」の最終版である第6版までの版ごとの訂正、補筆、削除の主な点が書かれており、文庫本自体も大変丁寧に編集されていることが分かった。私にとって、科学的な態度とは何か、他人を納得させる説明とはどんな行為を指すのかを考えるヒントになる気がした。 (先頭に戻る

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No.292 「カマキリ・ゴキブリ・シロアリ」(2022.7.25)

  夏の夜などゴキブリを見かけるときがある。ゴキブリは、ばい菌がいっぱいいる場所に棲んでいるので、菌がまき散らされる気がして嫌だ。だから、夕食後に食器を洗ったら、生ごみはビニール袋に入れて蓋のついたゴミ箱にしまうことにしている。日本の住宅で見かけるゴキブリは、主にクロゴキブリとチャバネゴキブリだが、世界のゴキブリは5000種(うち3500種については多少の記録がある)ほどいると推定されている。多くは、森林や草原にいて落葉や枯葉を食べる草食性だ。コウモリのいる洞窟、地中のアリや哺乳類の巣の中にも棲んで、そこにある有機物を食べている。人間の台所だけに現れるわけではない。丈夫な生き物で、水だけ与えて1年近く生きていたという記録もある。ゴキブリは、落ち葉を食べて糞にして、その糞を微生物が更に分解するという、自然界のサイクルで欠かせない生き物だ。

   ゴキブリは、化石から判断して古生代石炭紀(約3億年前)からいたというのが一般の説だったが、最近の遺伝子研究からは、2億6千万年前ころにカマキリとゴキブリの共通の祖先から分離して、白亜紀(1億6千万年前)には現在のゴキブリが生まれたと解説されている(記事)。
   ゴキブリのうちのキゴキブリは木質材を食べる。シロアリは、キゴキブリから進化したとされ、光を嫌い、暖かい気温や高湿度を好む、他の個体とコミュニケーション能力を持ち、穴を掘り、子供を育てる能力があることなど、ゴキブリとの共通点が多い。多くのカマキリは卵を産みっぱなしだが、シロアリは、若齢の若虫に給餌(自分の体液を与える)をしたり、卵を外敵から隠したり、家族で一緒に棲んで若虫が一定の大きさになるまで次の生殖を停止したりする。こうした社会性は一歩進んでいて「真社会性」と呼ばれ、ハチやアリなどで良く調べられている。ゴキブリの社会性は、カマキリとシロアリの間で、「亜社会性」と呼ばれている。ゴキブリは、多様な場所で形態も異なり、卵を卵鞘(ランショウ)という袋で持ち運びしたり、卵性だけでなく、卵胎生や胎生のように体内で孵化させたり、腸内細菌で木材を分解利用できるようになるなど、動物界全体を見ているような多様性を見せてくれる。ゴキブリの性質の一部はシロアリでは失われている。
   カマキリ、ゴキブリ、シロアリの系統をまとめて「網翅目(モウシモク)」と呼ばれている。以上は、「ゴキブリ 生態・行動・進化」(W・J.ベル、L・M.ロス、C.A.ナレパ著 松本忠夫/前川清人訳 東大出版 2021年12月24日発行)から得た情報だ。

   生き物から学べることは多い。遺伝子解析や成分分析技術、観測機器が進歩したので、生物学の研究は飛躍的に進むのではと期待している。短期的には感染症の予防、画期的な薬剤や治療法、食べ物やエネルギー資源などとして予想もしなかったような発明・発見ができるかもしれない。ゴキブリ研究は、多くの人からは「それが人間社会に何の役に立つのか」という疑問も出てくるだろうが、進化と適応の研究はとても面白い。百年後、千年後、1万年後の人間社会を考える材料になるとも思っている。もちろん、21世紀になってもミサイルを飛ばして殺し合い、核兵器を手放さない人類だから、千年後の未来が人類に残されているかどうかは疑わしいが。 (先頭に戻る

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No.291 「参院選と元首相暗殺事件」(2022.7.13)

  7月10日は参議院議員選挙の投票日だった。その2日前(8日)午前11時過ぎに、応援のため奈良市で遊説中の安倍元首相が銃で打たれた。その直前に、私は、友人のFさんと電話で「安倍内閣時代は森友加計や桜を見る会のスキャンダルがあり、消費税引上げ、コロナ対策で良いところがなかったね」などと話をしていた。電話を終えたと思ったら、Fさんがまた電話をかけてきて「テレビを見ろ。たった今、安倍が殺されたらしい」と言う。冗談かと思ったが、テレビをつけてみると、街頭演説中の元首相が物音とともに倒れ、SPらしき男たちが誰かを押さえつけている光景が目に入った。元首相は心肺停止状態で病院にヘリで移送された。夕方には死亡が確定して病院の記者発表が行われた。信じがたい思いがした。

   私は、小学生高学年のとき、政治家の暗殺を職員室で目の当たりにした。担任のM先生は教育熱心な人で、都市ガスの製造や新聞社の見学に生徒をつれて行ってくれるような人だった。その日は職員室に入ったばかりの白黒テレビで教育番組か何かを見せてくれていた。その番組が終った後か、途中なのか記憶はないが、テレビ画面には、舞台の上で演説していた人に誰かが駆け寄ってぶつかり、演説中の人が倒れ込む姿が映った。後に刺された人は社会党党首浅沼稲次郎という人で、刺した人は山口二矢(おとや)という右翼の若者(17歳)だと報道された(
事件の説明)。テレビを見ていた生徒はもちろんショックだった。M先生は浅沼稲次郎の死亡の知らせに気持ちが落ち込んだらしく、翌日の授業は全て取り止めとなった(おかげで生徒たちは校庭で遊んだり、自習したり、図書館で本を読んだりして楽しく過ごした)。
   調べてみると1960年10月12日のこの事件は、解散総選挙を控えて、3大政党〔自民(池田隼人)、社会(浅沼稲次郎)、民社(西尾末広)〕による公開討論会で起きたことだ。浅沼稲次郎が殺された結果、社会党への同情票が増えて民社党が議席を減らし、社会党は野党第一党としての地位を固めたと言われている。

   安倍元首相の暗殺事件の後(7月9日と10日の2日間)、メディアは、安倍元首相の死を悼む声とともに、「民主主義の破壊を許さない」などとする論調ばかりとなった(毎日社説7/9)。逮捕された男(山上徹也)は、「安倍氏の政治信条に対する恨みではない」、「親が宗教団体に多額の献金をして破産した。安倍氏はその団体の庇護者だと思った」などと語っていたので、政治的主張からの選挙妨害というよりは、個人的に恨みを晴らそうとしていたようである。選挙の結果は、同情票も加わったためか、自民党が単独で改選過半数の63議席を確保して大勝した(結果)。選挙後に、この宗教団体は韓国に本拠地がある旧統一教会(現在は「世界平和統一家庭連合」・教祖は文鮮明・教祖が作った保守系政治団体は国際勝共連合)だと公表され、団体が記者会見を行った(記録)。旧統一教会は、30~40年ほど前には、キリスト教に憧れる女子学生などを勧誘して、壺やハンコ、仏像などを高額で販売させたり、集団結婚式を韓国で行ったりして世間を騒がせていた団体である。信者から金をむしり取る団体だとも言われていたのに、安倍氏はこの団体から献金を受けたり、便宜を受けたりしていたようだ(記事1記事2)。
   私は、こうした忌まわしい事件を二度と起さないために、この銃撃事件の全容を徹底的に解明して欲しいと強く思う。浅沼稲次郎を殺害した山口二矢の場合は、山口が東京少年鑑別所で自殺をしたため、事件の全容が分からないまま終わっている。きちんとした裁判が確定するまで、山上徹也の安全も確保して欲しい。「民主主義の破壊を許さない」と新聞社が主張するならば、新聞報道はうやむやで終わらせるのではなく、旧統一教会と日本の政治家との関係についても徹底して取材をして公正な報道機関としての役割を果たして欲しい。安倍元首相のご冥福を祈る。 (先頭に戻る

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No.290 「バズーカ時代の金融政策」(2022.6.26)

  先々週18日、3年ぶりに同窓会の友人達と都内で昼食会をした。各人から3,000円を集めて、不足額20,204円を同窓会の会計から支払うこととし、私は、その額を立て替えて、店の会計を済ませた。立替額を清算しようと、ゆうちょ銀行のATMで20,204円を払い戻したところ、110円が差し引かれていた。ゆうちょ銀行内でのATMでは、払戻手数料は無料と思っていたので、職員に聞いたら、「硬貨が6枚(204円)なので、その手数料です」と気の毒そうに説明してくれた。この手数料は今年になってからのものだという(説明)。204円を受け取るために110円も支払ったのだ。自分は馬鹿じゃないかと思う。「窓口で払戻し手続きをすれば払わなくて済む」とのことだ。ぼんやりしていた自分が悪いとも言えるが、人手がかからないATMで1円を下ろすだけでも110円かかるのでは、どこか変である。
   ゆうちょ銀行がこんな変な制度を作ったのは、低金利・マイナス金利政策で銀行に利益がでないかららしい。日銀黒田総裁(安倍総理が任命した)のバズーカ砲のせいだ。ある人の説明では、「日本はデフレ不況なので、景気を良くするためには、市中にジャブジャブ金を流して、住宅購入や企業の投資を促す必要がある」と言う。また「日本政府は1000兆円もの借入(国債発行)をしており、その利払いだけで何兆円も支払わなければならないから、とても金利を上げられない」という。昨年から、都市銀行も地方銀行も紙の普通預金通帳を発行するときや未利用の口座を一定期間保有するときには、手数料をとるようになった(記事)。

   今、アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)は物価上昇を抑える目的で金利の引き上げを行っている(記事)。世界の金持ちたちは、円を売ってドルを買う。だから円安傾向が強まってきた(専門家は今の1ドル135円は150円ほどになると予想している)。ロシアへの制裁によって、石油や穀物価格が値上がりしていることに加えて、日本の金融政策が物価高を作り上げているのだ。物価高は消費者にとっては困ったことである。しかし金融政策は容易に変えられない事情があるから、消費者には困難が続くことになる。他方、海外に多額のドル資産(工場・預金など)を持つ大企業は、何の努力をしなくても、資産は円に換算すれば大幅な黒字になる。また、海外の投資家達は日本の株式をドルで割安に買うことができる。だから日本の株価は値下がりはしない。もし大きく値下がりするようなことになれば、日銀が日本の株式を買い支えることもできる。消費者には苦しいが、大企業や金持ちには好都合な状況が続く。
   ところで、私は知らなかったけれど、バズーカ(砲)というのは、第二次世界大戦で使われた携帯式対戦車ロケット発射器の愛称だそうだ。爆弾を積んだロケットをまっすぐ飛ばすための装置なので、ミサイルのようには誘導ができないものだという(説明)。ウクライナで盛んに使われているジャベリンなどの携帯式対戦車ミサイルは誘導装置(コンピュータと赤外線追尾など)がついたものである(説明)。他方、バズーカ砲は、まっすぐ飛んでいくだけで軌道をコントロールできないので、周辺にいる市民や住宅地にも被害をもたらす。どういう意味で黒田総裁の超低金利政策をバズーカ砲と表現したのかは知らないが、市民に少なからぬ犠牲をもたらしている点では、分かり易い表現かもしれない(解説)。    (先頭に戻る

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No.289 「平和の道 ウクライナ早期停戦」(2022.6.23)

  ウクライナ戦争は泥沼状態になってきた。最近の報道では、ウクライナの700万人が避難民となり、毎日100名を超えるウクライナ兵士(ロシアは報道はないが同じような犠牲者数だろう)が死に、子供を含む市民の死傷者も増え続けている。当初は停戦交渉を断続的に行っていた両国だが、今では双方が自国に理(利)があると期待するためか、交渉さえも放棄してしまった。アメリカやNATOは、ウクライナに武器供与を続けているので、ウクライナはアメリカの代理戦争をしているように見える。軍事専門家は、この戦争は長引きそうだと言っている。今後どれほどの死者がでるのか見当もつかない。

   問題は戦争を止めさせる側に立つべき先進国(日本などG7)が、ウクライナへの軍事支援とロシア制裁に積極的なことだ。その結果、石油、天然ガス、小麦などの重要物資が値上がりし、貧困な国はもちろん、G7国内でも物価高で苦しむ人がでている。武器を売りつけたり物資の価格が上がったりで喜んでいる人達がいる反面、ロシアへの制裁が、実際は自国民の犠牲を伴う政策になっているので、バイデン政権も、マクロン政権も不人気だ(
6/21記事)。日本でも好調だった岸田内閣の支持率が5ポイントほど下がっている(6/18記事)。こんな中で日本では7月10日の参議院選挙が公示された。日本は、この20年ほどの間に科学技術、企業の開発力、教育投資などで国際的な地位の低下が深刻になっている。今回のウクライナ戦争を契機に、物価対策と安全保障の進め方が大きな争点に加わってきた。物価対策では、消費税の扱いや賃金引き上げの方策が争われている。安全保障では、軍事費を増やし日米軍事同盟を更に強化するのか、核兵器に頼らないで外交による安全保障を強化するのかの選択が迫られている。

   私は、このところLEPIAという団体のサポーターになっている。もともとは、一般社団法人だったが企業の寄付金が集まらなくなって任意の団体として再スタートした団体だ(LEPIAのHP)。
   その団体が、ネットテレビ(Youtube)による対談を企画した(6月10日収録)。ウクライナ戦争に焦点を当てているので、選挙の判断材料になるかもと思い、以下に紹介する。ウクライナ戦争がなぜ起きたのか、ウクライナでの民族対立の実際と考え方、メディアの報道姿勢などが話されている。講師は孫崎 享氏(元外務省情報局長)、大西 広氏(京都大・慶応大名誉教授)、鮫島 浩氏(元朝日新聞政治部・特報部デスク)の3人だ。3人の専門分野からの発言がPart1、3人の対話がPart2となっている(それぞれクリックすれば見られます)。 テーマは、「平和を創る道=ウクライナ早期停戦」
   LEPIAテレビ第1回 Part1                  LEPIAテレビ第1回 Part2
   もちろん、鼎談の内容は様々な情報のうちの一つに過ぎない。あれこれ調べて考えた末の投票行動ならば、例え1億分の1であっても意味があると考えている。また、代議制の下で高額所得を得ながら議員が大きな顔をする(セクハラや収賄もある)のを見聞きしている私たちには、選挙は貴重な“政治洗濯”の機会でもある。    (先頭に戻る

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No.288 「八重ドクダミ 花びらが葉に変化」(2022.6.3)

  この時期に建物の陰など湿気の多い場所で咲いているのは、ドクダミだ。十字の真っ白な花びら(実は苞又は苞葉と呼ばれる)は面白い。下の写真の左側は通常みられるドクダミ。下写真の中は、苞が何枚か重なった八重のドクダミ。ここまでは以前にも書いた。 ⇒随想No.217「ドクダミ 花びらか葉っぱか

   下の写真の右は、パートナーが育てている八重のドクダミ。先月末から咲き始めたが、白い苞の3枚ほどが緑色になって、しかも、葉っぱの恰好をしている。クリックして拡大で見ていただければ、葉脈のようなものまで見て取れる。植物学者が言うように、苞(包又は苞葉)とは、葉が変化して雌蕊を包む役割をしているものだとすれば、苞が本来の葉に戻ったとしても何も不思議はない。しかし何がそうさせているのかは気になるところだ。考えられる原因を列挙してみよう。
   ① 先ず考えられるのは、ウイルス、細菌、カビ、昆虫、線虫などの影響だ。ウイルスや細菌の感染は良く起きる、虫に寄生されたり何かを注入されたりして植物の生長・分化が狂ってしまう。植物にできる虫こぶなどと同様である。ただし今回は、虫などは見つけられなかった。
   ② 花が分化し始めたときに、花芽(雌蕊など)になる先端部分が、一時的に低温に出会うことで、今は花の時期ではないと判断して、再び葉として伸び始めたのかもしれない。これも比較的多い現象だ。
   ③ 花や実ができるためにはリンやカリウムが必要である。この八重のドクダミは、もともと道端の草むらにあったものを拾ってきて、窒素の多い用土で鉢に入れて育てていたので、葉緑体を含む葉が作られ易かったかもしれない。
   ④ 希に細胞分裂が盛んな部分に、宇宙や原発事故の放出物質からの放射線が当たって変異することがある。今回は、苞が完全な葉の形になっているので突然変異であるとは思われない。
   ⑤ そのほか、植物体が折れたり、水に浸かったりしたときに被害を修復しようと花芽の形成から通常の生育に戻ること、あるいはその逆に急に花芽が着くというようなことがある。ただし、毎日見てきたのでこの可能性は殆どない。

   今回の苞が葉に変わった決定的な理由は分からない。しかしこのような現象は、生き物(特に植物)が、環境や個体内部の微妙なバランスで生きていることを思い起こさせる。強いようで弱く、弱いようで強い。多少の変化には耐える力があり、個体には恒常性(修復力)がある。限界を超えれば何かを犠牲にしてでも生き続けようとする。花を咲かせる条件(温度や水、栄養成分)がなければ、条件が整うまでじっと待つ。今年がダメなら来年咲けば良い。私の蘭(バンダ)には、日照か温度が足りないせいか、この10年ほど一度も咲いてないものがある。葉の枚数は増えているので希望は捨てていない。生きてさえいれば、いつかは咲くときが来る。    (先頭に戻る

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No.287 「2泊3日東北温泉巡り」(2022.5.25)

  5月18日に秋田県湯沢市の小安峡温泉、19日に山形県鶴岡市の湯野浜温泉に泊まった。この2年間宿泊旅行はしていない。温泉に浸かりたい気持ちが高じて少しハードなドライブ旅行となったが、好天に恵まれ、途中の新緑の中で、キリやフジ、タニウツギの花がふんだんに見られたのはラッキーだった。
   子安峡は、岩手、宮城、秋田の3県にまたがる栗駒山の秋田県側にある。地熱貯留層の亀裂から熱水と水蒸気が川の両岸から噴き出している場所である。ここにたどり着くのに、東北自動車道の一関ICで降りたのは失敗だった。一関から子安峡には車が走れる道路があるが、冬の間は通行禁止になっていたのだ。カーナビが無理だと言っているのを無視して車を進めてみたが、本当にダメだと分かり、南側の築館ICから子安峡に向う道まで引き返すはめになった。下の左の写真は、一関から来る道との合流場所(栗駒大湯)だ。積雪があり進入禁止の表示があった。
   今の時期は、山菜が美味しい。フキ、ウド、ネマガリタケ、ウルイ、タラノメなどを堪能した。地元の10旅館が共同で作成した「山菜図鑑」(ミニ冊子)が食卓においてあった。宿泊した旅館は客が3組みほど。私たちのほかは、地熱調査のためのボーリング会社のグループと、老人の男女グループだった。温泉の湯舟には客がおらず、私は男湯を一人で楽しんだ。
   湯沢市から山形県に抜ける道は、南側に鳥海山が見える(下の中の写真)。鳥海山は、秋田県と山形県との境に位置している。標高2236mで裾野が広いので、遠くからは山頂部分しか見えない。
   秋田県本庄市から山形県酒田市までは、右に日本海を眺め、左に鳥海山を眺めて進んだ。最上川の河口の酒田市では、本間美術館(鶴舞園)、散居倉庫を見た。北前船や米の商い、大名貸しで豊かな本間家がしのばれる。山居倉庫の一部は博物館になっているが、今でも米の低温倉庫として使用されている。

   2日目の湯野浜温泉は、数階~10階のホテルがいくつか砂浜に向かって立ち並ぶ場所だ。宿泊したホテルは、私たち以外の客は1組だけという有様だった。夕方と朝に入った男湯は自分一人の貸し切りだった。食事はコロナ対策のためプラスチックの弁当箱に入れて部屋に届けられた。見た目は豪勢なおかずが入っていたが、どれも似たような味付けで、フリーズドライのスープの素と味噌汁(紙コップにお湯をいれて溶く)が付いていた。前日の宿の料理に比べてガッカリだった。近くの小さな公園に、浜野湯を舞台にした藤沢周平の「蝉しぐれ」話の一部が掲示されていた。夕方の観光案内所には人はおらず、観光パンフレット以外は、自衛隊員募集の掲示が目立つていた。
   翌朝は地元観光の目玉、鶴岡市立加茂水族館を尋ねた。ここはクラゲの研究と展示で有名で、オワンクラゲの発光タンパク質の発見でノーベル賞を受賞した下村脩博士が名誉館長になっている。9時開園で10時頃の駐車場にはすでに40台ほどの車が入っていた。コロナ感染の中で比較的多くの観光客を集めているようだ(以前は入館待ちになるほどの客が来ていたとのこと)。加茂水族館は、国立がんセンターと共同研究をされている。旅行の締めくくりとしては良いものを見た気がした(写真右は水族館で展示中のオワンクラゲ)。    (先頭に戻る

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No.286 「検証なし情報はウソだと思え」(2022.5.13)

  あさのあつこの時代小説「薫風ただなか」の話の中で、「流言は知者にとどまる」という荀子(じゅんし、紀元前230年ころの儒学者)の言葉を見つけた。「根拠のない噂が広まっても、知恵のある人はそれを他人に話さないから、噂はそこで止まってしまう」という意味だ。
   インターネットのおかげで現代は情報にあふれている。情報には、ニュースのような事実を知らせるものから、商品の宣伝、教団・政党・団体の勧誘、同調を求めるものなどいろいろだ。得てして悪い話やショッキングな話ほど伝播しやすい。先のアメリカの大統領選挙では、投票で違反があった証拠だとする写真などが出回り、トランプ大統領が、州の選管に選挙のやり直しを要求した(記事1記事2記事3)。
   問題は、嘘の物語りを捏造することだが、さらに問題なのは、その真偽を確かめようともせず、自分の主張と同じだから、あるいは面白いからという理由で流布させることである。流言の結果が、他人を自殺に追い込んだり、間違った判断を大勢にさせることは、しばしば見られる。しかし、流言蜚語を規制することは、検閲など言論の自由を制限することでもあるので、危険でもある。現実は荀子の考えたような知恵のある人は多くはない。むしろ現代は、国の内外を問わず知恵のある者が詐欺を企み、ウソを広げる時代だから、流言の流布は止められない。つまりはだれもが情報の真偽をチェックする力を持たない限り、騙され続けることになる。

   ウクライナ北部からロシア軍が撤退したブチャで多数の遺体が見つかった。これについては、ロシア軍による市民の虐殺が疑われているが、ロシア国防相や在日ロシア大使館が「ウクライナの自作自演だ」として、ブチャの虐殺を否定している動画を報道機関に提示した。毎日新聞5月13日の夕刊にウクライナの言い分が正しいのか、ロシアの言い分が正しいのかを検証した記事が掲載された(毎日5/13毎日5/7)。
   毎日新聞のこの記事では、検証方法としてオシント(open-source intelligence)と呼ばれる公開情報から調べる方法が採られた。ロシアが提出した動画を、そこに映っている建物や道路標識を手がかりに、グーグルアースで公開されている衛星画像と突き合わせてみると、ウクライナ軍が撮影した元の動画(多数の遺体が野ざらしになっている通り)とは異なる場所で撮られたことが判明した。毎日新聞の記者は、5月上旬にブチャに入って住民から聞き取りをしてその裏付けを得ている。記事の執筆者には、5人の記者の個人名(賀有勇菅野蘭國枝すみれ佐野格八田浩輔)が書かれている。記者の名前は重要である。記者が日頃どんな内容の記事を書いているかを見るだけでも、記事が信頼できるに足るものかどうかが分かる。
   公開情報の中にも偽情報はあるから検証は容易ではないが、現代のメディア(特に新聞)の価値は、早く報道することよりも、ニュースの背景や内容を検証し、真偽を正しく評価できるかどうかだと思っている。Qアノンのように著者の名前もない話は、まず疑った方が良いだろう。民主主義、環境保護、平等などの現代の価値観で語られる情報の中にすら、ウソが潜んでいるのだから(⇒サンゴ記事捏造)。    (先頭に戻る

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No.285 「個人を無視する外交の逆効果」(2022.4.28)

  北京冬季パラリンピックの開催直前の3月3日に、国際パラリンピック委員会(IPC)はロシアとベラルーシの参加を認めない決定をした。国に所属しない「中立選手」の立場で個人資格での出場を認める、という前日の決定をわずか1日で翻意した。IPCのパーソンズ会長は、記者にこう語っている・・・『IPCが方針を変えなければ、我々は去る』などの抗議を受けた。練習を積み重ねてきた選手たちを抱える各国のパラリンピック委員会が、本当に大会ボイコットを突きつけてくるとは思わなかった(記事1記事2記事3)。
   オリンピックやパラリンピックの基本精神は、個人の尊重(男女や障がい者の平等の権利)だ。だから、IPCの最終決定は残念なことだと思っている。読売記事には「パーソンズ会長は、パラリンピック委員会の中には、自国の政府の方針を受けて批判を強めたところもあったと示唆した」とあるので、軍事同盟NATO参加国の多くの政府が政治介入をしたのだろうと想像している。
   そもそも、北京オリンピック・パラリンピックに関しては、中国国内の人権問題などを理由に、アメリカなどが外交的ボイコットを呼び掛けていた。国威発揚として行うスポーツ大会も嫌だが、政治の思惑で介入して開催を貶めるのもどうかと思う。根底にはトランプ大統領時代から続いている対立がある。ロシアのウクライナ侵攻の後には、アメリカは「ロシアの次はお前だぞ」という態度で中国と接しているから、中国をロシア側に追いやってしまうと思う。経済成長が進むインドは、中国と対立する関係からクアッドというアメリカ主導の安全保障の枠組みに入っているが、ロシアとは長い付き合いがある。バイデン政権は、インドがロシアと手を切るように不愉快な圧力をかけていると報じられている(記事4/28記事4/19)。

   軍事大国ロシアはアメリカと似て、力に頼る性癖がある。4月25日のロイターは、フィンランドとスエーデンがNATOに加盟申請をする動きを報じている(記事)。ロシアは「ウクライナをNATOに加盟させないこと」を目的として侵攻を始めたのだから、中立を維持してきた他の国をNATOに追いやることになったのは、皮肉なことだ。私はスイス連邦のような直接民主主義で永世中立国を理想と考えている。中立国とは、「他国を敵視しない」、「自国内に他国の軍事基地を置かない」国である。どの国からも「攻める理由がない」国のことである。ウクライナ侵攻をしたプーチン政権のせいではあるが、軍事同盟依存が増えて緊張が高まって行くことをとても残念に思う。
   大統領が個人的な歴史認識から戦争を始めたことを指摘して、ウクライナ戦争を「プーチンの戦争」と呼ぶ人がいる。ロシア国民が願って戦争を始めたわけではないのだ。日本にいるロシア人が自国のウクライナの侵攻に反対して集会を開いたことが報道されていた。ロシア国内でウクライナ侵攻を批判する勇気のあるロシア人が大勢いることを知っている(記事3/16)。だから、私たちは、政権中枢のプーチン達とロシア国民とは区別して対応しなければならない。ロシア人だからという理由で、国際的な文化活動やスポーツ活動から排除することは道理に合わないし、逆効果だと思う。排除された人が道理のない西側のやり方に疑問を持っようになり、プーチン支持者が増えるからだ。4月13日に国際音楽コンクール世界連盟が、ロシア政府が資金提供するチャイコフスキー国際コンクールを除名した(記事3/20)。先のパラリンピックへのロシア選手の参加禁止と併せて考えると、排除するよう仕向けた指導者は、戦争を起こしたロシアの政権と個人との区別ができているのか、アスリートや音楽家個人を本当に尊重しているのかと疑問が起きる。
   世界最強の軍隊を持つアメリカのバイデン大統領の支持率は、今年3月末には就任以来最低の40%となった。米国は戦争の当事者ではないにもかかわらず、米国民は、物価高に苦労し、戦争に巻き込まれる不安を感じている(記事3/30)。私は、ロシア、ウクライナの戦争当事国の抑制・辛抱を願っているが、武器支援などを続けるNATOやG7が対処を誤れば、核ミサイルが飛び交う悲劇が現実となる。 (先頭に戻る

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No.284 「戦争の不条理と大国の身勝手さ」(2022.4.18)

  戦争にはいつも大国の身勝手と理不尽さがつきまとう。ウクライナに戦争を仕掛けたロシアに対して、アメリカなど先進7か国などは経済制裁を行うことを決め、他国にも制裁に加わるよう呼び掛けている。ロシアは、石油、天然ガス、レアメタルなどの資源国である。資源やエネルギーがない国では、ロシアからの輸入を停止すれば、自らが苦境に立つことになる。供給元は限られているから、供給元が減れば減るほど、割高であっても自国に不利な契約であっても我慢しなければならない。資源を持たない国にとっては、経済制裁は死活問題だ。しかし。国内に油田を持つアメリカやイギリスは問題はないどころか、石油が高く売れるし、コストの高いシェールガス開発が進められるメリットがある。
   制裁は段階的に進められるというが、すでにガソリンや小麦の価格の高騰となって世界の人々に損失を与えはじめた(
データ)。ぎりぎりで生活している人々が先ず苦しむことになる。フランス大統領選挙で極右といわれるルペン候補が善戦しているのも、経済制裁の問題点の現れだ(記事)。

   戦争は、自国が戦場にならない限り儲け話にもなる。他人の不幸を喜ぶ人の話はあまり報道されないが、軍需産業は、今回の戦争の恩恵を確実に受ける。近年の兵器の輸出国リストを見ると、第1位はダントツでアメリカ、2位はロシア、3位はフランスなどとなっている(データ1データ2)。 ウクライナの戦地は、兵器の実践性能の見本市になっているから、米国製の携帯用対戦車ミサイルジャベリンは引っ張りだこだ。
   ロシアはインドに大量の戦車や航空機を販売している。インドはそこに利益を感じるからロシアを非難しない。ロシアはクーデター後のミャンマー軍事政権にも軍用機Yak-130を売っている。これは、ミャンマー軍に武器を売るなという国連決議の無視だ。4月17日のNHKドキュメンタリー「忘れられゆく戦場~ミャンマー泥沼の内戦」では、そのことが報じられた。一般市民だったミャンマーの若者達が少数民族の統治する山岳地域で戦闘訓練を受けるようになり、その山岳地域をミャンマー軍はロシアから買った軍用機で爆撃している状況が解説されている。
   プーチンの行為は戦争犯罪である。しかし、戦争犯罪で裁かれる見通しはない。国連とは独立して戦争犯罪を追及する機関に国際刑事裁判所(ICC)がある。日本やヨーロッパの多くが加盟・批准しているが、大国アメリカもロシアも中国もインドも批准していない(ICC締約国)。批准していない国の多くは、軍事政権であったり、外国に攻め入ったり、国内で武力紛争を起こしたりしている国である。大統領や軍人が戦争犯罪を起こすことが考えられるからICCには参加しないのだ。 現代の全ての戦争は自衛の名目で行われる。海外に軍隊を派遣して行ったアメリカのイラク戦争やアフガニスタン戦争であっても、「大量破壊兵器を開発している」、「911事件を起こした国際テロリストをかくまった」という理由で自衛だと主張している。今回のウクライナ戦争に限らない。戦争の背後には、必ず、大国・強国の身勝手さと、兵器産業の冷静な計算があることを、世界の人々は知っておく必要があると思う。 (先頭に戻る

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No.283 「共感と共感疲労」(2022.4.17)

  年度末はちょっと忙しかった。中学校体育館を地元市民に開放する事務、所属する学会の会計報告作成があったためだ。どちらも全くのボランティアであるが、私のパートナーの口を借りれば、「無報酬なら手を抜いても構わないと言う人がいるが、そのような活動なら信用されなくなり意味を失う。むしろボランティアこそしっかりと仕事をするべきだ」ということになる。一連の事務を終え、ようやく随想を書く気分になった。

   "Donation fatigue”という言葉を知ったのは10年前だった。当時、ラオスで貧困地域の子供たちに教育の支援をしていたRさん(オランダ人)からこの言葉を知らされた。話を聞くと、「教育を受けさせるためには校舎を作り、教材を入手する金が必要になる。ヨーロッパの友人たちに寄付を頼んだところ初めは喜んで寄付をしてくれた。しかし、活動を進めるうちにやがて寄付には応じられないという返事をもらうようになった」ということだった。寄付する目的や活動には賛同しても、何度も寄付を求められると疲れてしまうのだ。教育だけでなく、食糧不足や医療不足で死んでいく人はとても多い。話を聞くと自分のことのように感じて同情するが、悲惨は次から次に生み出される。何とかしてあげたいとは思っても全てに寄付することはできないので、心がくたくたになる。
   先日ラジオで、介護の研究者が共感疲労(empathy fatigue、compassion fatigue)という言葉を説明していた。他人の悲しみや苦労を聞かされると同じ気持ちになり、何とかしてあげようと行動しているうちに、無力感を感じたり、強い責任感を感じたりして、肉体的にも精神的にも落ち込んでしまうことだ。共感することはヒトにはとても大事なことであり、社会生活上は欠かせない性質だ。しかし、共感力を上手にコントロールできないと、無力感で落ち込むだけでなく、自分に共感しない人を非難する気持ちさえ生じる。

   昨今は、ロシア軍がウクライナ市民を死傷させたり、住宅地や病院を攻撃したりする映像が毎日のように放映されている。国外へ避難するウクライナ人は500万人にもなり、日本に避難してきた人の話も聞いている。 ウクライナのゼレンスキー大統領は、NATO加盟諸国に武器の提供を呼び掛けているので、直ちには停戦になりそうにない。だから、憂鬱さが増している。これも共感疲労かもしれない。
   犠牲となったウクライナの人々に同情している。そして、戦争を始めることを知らされずに動員されたロシアの若い兵士も気の毒だと思う。アメリカ製の歩兵携行式対戦車ミサイル(
ジャベリン)やトルコ製のドローンで反撃されて死んだロシア兵は数万ともいわれている。戦争継続を主張する両国の大統領には全く共感できない。ロシアが侵攻してこの戦争を始めたのだから、プーチン大統領が国際法の違反者なのは明らかだ。国の安全のためだろうと、「民主主義」を守るためだろうと、民族の自決のためだろうと、今の時代に殺戮の継続を肯定できる理屈があるとは思われない。市街地を瓦礫にして死者を増やし続ける戦争の継続にどんな意味があるのか。ロシアは核兵器の使用もほのめかしている。ウクライナの幹部は、「最後まで戦い続ける」という。政治としてこの戦争を見た場合には、何が目的なのか私には理解できない。戦争被害者に共感して人道的な支援をするとしても、現実を見聞きしていると一層憂鬱さが増していく。
   共感疲労を覚える人に助言するサイトがあった。最近ではウクライナ戦争や、新型コロナなどでも共感疲労が起きているからだ。対策としては、疲労を自覚すること、深刻なニュースを見過ぎない、他の人と話をする、気晴らしをするなどが考えられている ⇒NHK解説海原ひだまりこころ。 (先頭に戻る

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No.282 「神様の存在と戦争との関係」(2022.3.22)

  慈愛に満ちた神様は言う、「神を信じなさい」と。親切な口調で詐欺師も言う、「私を信じなさい」。
    第一次世界大戦後のヨーロッパでは、キリスト教信者数の減少が見られたという。第一次世界大戦(1914~1918)が4年以上続く総力戦となり、スペイン風邪も加わり、未曾有の死者、病傷者を出したからだ(
参考12345)。それぞれの国のキリスト協会などが戦争に協力したことへの反発はあるだろう。あまりの悲惨さに「この世に神様はいない」と悟ったのか、夫や息子が戦場から帰るよう神に祈ったのにかなわなかったからか。戦勝祈願もむなしく敗北し、戦勝国になった側もみじめな状態になった。多くの人が神様に裏切られた気持ちになった。戦車、機関銃、塹壕戦と毒ガス、飛行機の出現は、全知全能の神様でも予想できなかった。ヒトがこんな発明をするのを知っていたならば、神様は「危険すぎるからやめよ!」と止めたかもしれないのに。人々は自分の信じたいことを神様に願い、祈っただけだった。
   第一次世界大戦の悲惨を経験して、戦後に戦争を犯罪とする「不戦条約」が作られ(1929年発効)、当時の日本も批准した。その第一条は、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル」とある。この考え方は、日本国憲法9条や国連憲章第2条第4項にも引き継がれている(国連憲章)。
   しかし第二次世界大戦でも、それ以降の国際紛争でも、人類は自ら作った不戦の規定を無視し続けて、今日に至っている。神様がいたならば、「核兵器を持つなどとんでもない」として、雷神を遣わして核兵器を無力化してくれるのではとも思うが、そうならないのは、人々の信仰心が足りないのか、神様と間違えて悪魔を崇拝しているせいか。あるいは、ノアの箱舟の大洪水の時のように、性懲りもなく乱暴を繰り返す人間に呆れた神様が、「もう一度滅びるがいい」と見捨たからかもしれない。

   そもそも、神様の存在はどうして信じられてきたのか、と問えば、大昔は人間には分からないことが沢山ありすぎたからだ。「分からないことは神様のせいだ」とすれば、深く考えなくてもすむ。無知蒙昧な人間に警告を発し、善導してくれる存在。その願望が神様の存在を確かなものと感じさせるのだ。
   日本の仏教や八百万の神々とは違い、キリスト教では神様は全知全能とされ、人々に苦難を与えて個人の信仰心を試すから、神様の存在を疑う人達もでてくる。そこで、神様の存在を論理的に証明するため、神学が発展した。神学の論理は、「神様とは全知全能というだけでなく、無知蒙昧な人間を善導する何者かである」という前提で考えられている(参考)。だから、神様の存在については、「愚かな人間が自然界での物事や法則を発見し理解できることこそが、人間を助け善導してくれている神様が存在する証拠である」と説明する。また、人間社会にはトラブルを回避するための道徳があるが、これは宗教の戒律(神様の言葉)と深く結びついている。西洋で天文学や数学、哲学や諸科学が発展した背景には、神様の存在を証明しようとした信仰心の篤い人々がいたからだ(例、デカルト、カント)。
   現代は科学の時代、民主主義の時代だと思っている人が多いけれど、実は、宗教が満ち溢れ実効支配している時代でもある。神様とは、正義や願望をかなえてくれる存在だ。偶像を認めなくても、宗教的装いがなくても、自分の信じるものだけが正しいというレベルに至れば立派な宗教である。民主主義や社会主義を標榜するイデオロギーであっても、愛国心や排外思想であっても、それぞれに神様が潜んでいる。もちろん本当の神様もいるかもしれないが、悲しいことに人の目には神様を装った詐欺師との区別ができない。 (先頭に戻る)

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No.281 「ロシアのウクライナ侵攻」(2022.3.6)

 21世紀になって、れっきとした国同士が本当に戦い合うなんて信じがたい思いだ。北京の冬季オリンピックが20日に閉会した後、2月24日にロシア軍はウクライナの軍事施設のミサイル攻撃を開始した。すでに攻撃対象は、軍事施設だけでなく、テレビ塔、原子力発電所など、生活インフラにも拡大されている。兵隊の死者は不明だが、国連は3月5日現在で、市民の死者は351名(うち子供が22名)と報道している。ロシアの軍事車列を阻止しようと決死の覚悟で対峙している人たちがいる。そして100万人を超す人々が隣国に避難している。これまで2回停戦協議が行われたが成果はない。プーチン大統領は「ウクライナの非武装・中立」を停戦の条件としているのに対して、ゼレンスキー大統領は、ロシア軍の撤退を要求し、海外の志願兵や武器を集めている。直ちには停戦できそうにない(記事)。死者が増え続けることだけは確実だ。

   住宅などの炎上や女性や子供の避難の様子をニュースで見聞きするから、私はウクライナに同情する。国連や各国政府からロシア非難決議や経済制裁が出されているが、即時的な効果はないとのことだ。欧米の声援と武器供与とは戦争状態を長引かせ、ウクライナの人々を死地に追いやっている感じがしてならない。世界に満ちている声は、「戦争を止めて欲しい」であり、「戦争を続けてくれ」ではない。ゼレンスキー政権にも本腰で停戦のための外交交渉を進めて欲しい。プーチンを非難していれば解決できることではなくなっている。
   バイデン政権は、侵攻開始前から「NATOに入るのはその国の自由だ」、「米国はウクライナの紛争に関与しない。ウクライナでは戦わない」と述べている(記事)。米国(NATO)が介入してくれないと分かった時点で、ゼレンスキーは、ロシアとの妥協の道を探ることはできなかったのかと思う。2月25日毎日朝刊で、元モスクワ支局長の杉尾直哉さんは「侵攻の根底にはプーチン大統領の米国への恨みがある。プーチンが大統領就任当時の米露関係は決して悪くなかったのに、米国は、国際社会では常にロシアを無視し続けポーランドなどをNATOに加盟させてきた。プーチンは歴史的にロシアと不可分のウクライナまでがNATOに加盟することの不安を米国に訴えてきた」と解説している。ロシアの暴挙には、米国がその口実を与えてきたように見える。かってブッシュ政権は、国際世論を無視して、フセインが大量破壊兵器を開発しているという口実でイラクに侵攻した(後に口実は嘘だったと判明した)。こうしたやり方もロシアの手本になっている(記事)。

   戦争は始まったらすんなりと終えることは不可能だ。犠牲者が増えれば怒りも増して「愛国的」な戦う人達が増える。ゼレンスキーもプーチンも国内での支持率はきわめて高くなっている(記事1記事2)。今のウクライナとロシアの関係とは時代も国際環境も違うが、日本は終戦に至るまでの悲惨を経験してきた。先の大戦で大日本帝国政府が敗戦が濃厚になのに停戦交渉を怠り、ポツダム宣言の受諾を先送りする中で、沖縄地上戦、都市への無差別空襲、原子爆弾投下に至った経過を思い出して、私はとても暗い気持ちになってしまう。武器を持って戦うことが更なる悲劇になることもある。一日も早く停戦が実現するよう祈るしかない。 (先頭に戻る)

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